Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

制御不能の労働力不足

 

去年2017年度の失業率は23年ぶりに3%を下回り(2.8%) 、有効求人倍率は1.59と1974年1月の1.64以来44年ぶりの水準であった。高度経済成長の後半からバブル期のピークさえ抜くかのように思えたほどであった。しかし、日本が抱える人手不足は今後さらに深刻化する可能性がある。

 

第2次および第3次安倍政権の4年間に就業者数は200万人以上も増えており、これは生産年齢人口が年率1%近く減る中で、高大な数字だ。もっとも、その内実をみると、増えたのはもっぱら非正規雇用の短時間労働者であり、人数×労働時間で測った労働投入量はほとんど増えていない。ゆえに、経済成長率に反映されなというわけである。

 

こうした短時間労働者が大幅に増えた理由の一つは、団塊世代が予想以上に働き続けたことにある。ただし、主に再雇用などでフルタイムで働くわけではないから、労働時間は大きく減少している。もう一つは、主婦パートの増加である。ここ数年、女性の労働参加率は顕著に上昇しているが、保育所の不足などもあってフルタイムで働く女性はあまり増えていない。配偶者控除の上限を気にして就労調整するような短時間のパートが大半である。

 

もちろん、こうした短時間労働者の増加自体は好ましいことである。安倍政権下の平均実質成長率は1.3%だが、もし短時間労働者の増加がなかったら1%を下回っていただろう。労働者不足対策としての高齢者と女性の活用が進んでいるのは、間違いのない事実である。また、”非正規雇用=不幸な人”という捉え方は偏頗である。今増えているのは、定年を過ぎても元気に働き続ける高齢者であり、子育てを終えて時間に余裕のある主婦たちだ。就職戦線は完全に売り手市場だから、新卒時に正規雇用を望んでも職が得られず、仕方なく非正規雇用に就いた人の数は着実に減少してきている。それに、非正規雇用の賃金水準は低いが、正規雇用との格差は縮小している。企業収益は好調でも、中期的な競争力への不安から組織労働者の賃金はほとんど上がっていない。一方で、パート、アルバイトの時給は、労働需給の逼迫を素直に反映する形で年々上昇が続いている。

 

問題は、短時間労働者で人出不足を補うという方法は持続性を欠くということにある。実際、短時間労働者の増加は限界に近づいているのではないだろうか。その根拠は、団塊世代が去年から70歳代に入ったということだ。さすがに70歳を越えればリタイアする人も増えてくるだろう。また、女性の労働参加率はすでに米国並みにまで高まっている。北欧の水準にはまだ遠いが、北欧とは社会の仕組みが大きく異なる。これまでのような勢いで労働参加率が上昇を続けるとは想像しがたい。

 

宅配便の限界が大きな話題になるなど、人手不足は深刻な状況にある。そう考えると、日本で必要なのは生産性の向上とフルタイムの女性就労を支援することだろう。建設業界が残業時間の制限に適用猶予を求めているようなときに、景気対策で公共事業を増やしているのをみると、うつけたように立ち尽くしてしまう。

 

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問われる平常時の住宅政策

 

東日本大震災から7年が経とうとしている。 東北の震災3県である岩手、宮城、福島では今なお3万人もの人が仮設住宅に住み続けている。応急的であり、一時的な仮設住宅に多くの人が長く住み続けなければならないということを、我々はどのように考えているのだろうか。もちろん仮設住宅に住み続けている人たちも、一刻も早くその場から離れたいという気持ちを日々抱えて生きていることだろうし、被災自治体の関係者も同じ気持ちで日々復興に向けて職務にあたっている。だから私はこうした状況を受け、当事者の判断や自治体関係者を問題にするつもりは微塵もなく、むしろ復興が進まない状況を許容しているのは私であり、当事者以外の非被災者であると考えている。自分が当事者にならなければ主体という意識すらなく日々平然と生きていける鈍化した感性が一番の深刻な問題であり、復興が進まない原因なのだろうと思う。

 

このブログではこれまで2度に渡り住宅問題を取り上げてきた。

 

 

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1回目は空き家問題について書いた。日本全国で空き家の数が増えてしまった原因と、国を挙げて空き家の再利用に取り組まなければならないことを指摘した。

 

 

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2回目は若者のための住宅政策を書いた。相対的貧困層が増え、日本全体で経済成長が鈍化してきた社会で、住宅政策に早急に取り組む必要性を訴えた。

 

3回目となる本稿では、震災後の住宅をめぐる日常生活回復の拠点となるべき住宅確保の政策について、平常時の住宅政策との接合を重視し、普遍的な社会政策の一環としての住宅政策の必要性を訴えていくことを目的とする。社会政策の一環としての住宅政策の中で、国土交通省が”住宅確保要配偶者”という小難しい言葉を用いるのは、対策を講じようとする姿勢の表れだと受け取れる一方で、政策の必要性が認知されてこなかったことの表れとも言える。

 

この「住宅確保要配偶者」とは「低額所得者、被災者、高齢者、障害者、子供を育成する家庭その他住宅の確保に特に配慮を要する者」の略称である。その問題認識の広さは注目に値するが、対策の実質が伴わなければならないだろう。本稿では「住宅確保要配偶者」のうち「低額所得者と被災者」に着目し、住宅政策を構築するための論点提示を試みる。

 

仮設住宅には大きく2種類がある。プレハブと呼ばれる建設仮設住宅と民間賃貸を借りて提供する借り上げ仮設住宅である。東日本大震災を契機に急増したのは後者の借り上げ仮設住宅であった。震災前の想定では、借り上げ仮設住宅は、賃貸住宅関係団体が作成した空き家リストと被災者のマッチングにより提供することとしていた。しかし、震災後の混乱のなかで市町村や被災者に情報が周知されず、リストの作成やマッチング作業の進行よりも、被災者が自ら住宅を借りようとする動きが早かった。そこで被災者が借り上げ条件に沿った民間賃貸住宅に入居した場合、自治体の借り上げ住宅と認めるなど特例措置を講じた。特例措置により借り上げ仮設住宅数は急増し、その戸数及び割合は驚くほど上昇した。

 

特例措置そのものは、被災者の動向やニーズにあった適切な対応であっただろう。しかし、対応が後手にまわった弊害は大きかった。被災救助法としての住宅提供にはすでに被災者と家主が結んだ賃貸契約を県、家主、被災者間での契約に切り替える手続きを要し、それに大変な時間と労力がかかった。建設仮設住宅に合わせて当初二年契約を結び、これを一年延長するごとに更新する手間もかかり、何より、更新を拒否され転居を余儀なくされるという問題も生じた。なお、のちに建設仮設住宅や一定の条件により借り上げ仮設住宅への転居を認めている。

 

このような借り上げ仮設住宅の実態は、現物供与というより家賃補助の意味合いが強いことを物語っており、支援の方法を実態にあわせるべきと考える。被災自治体や会計検査院は今回の経験を踏まえ、現金給付化の必要性を指摘した。住宅の現物供与中心ではなく賃貸の現金給付をすれば、転居の問題もなく、移住権の保障にも繋がる。今後このような改善策を取ることが期待されるが、それが実現しても、重大な論争点が残る。災害救済法に基づく応急的、一時的な措置である以上、住宅の現物でも賃料の補助であっても、いつまで給付し続けるか、という問題である。そこで、震災から23年を経た阪神淡路大震災の例を取り上げたい。

 

避難所から仮設住宅に身を移したあと、被災者が目指すのは仮設ではない安定した住宅の確保である。選択肢は大きく二つある。自宅再建、もしくは災害公営住宅等への入居である。阪神淡路大震災による住宅被害は広域に及ぶが、被災規模が突出していたのは神戸市であった。神戸市は、応急仮設住宅入居者の実態調査から、被災者に高年齢・低所得者が多く、公営住宅等への入居希望が高いという実態を踏まえ、公営住宅供給を計画的に進めた。特に神戸市は、当時の都市基盤設備公団及び民間から借り上げて公営住宅として供給する、借り上げ復興住宅を全国に先駆けて実践した。

 

借り上げ復興住宅に被災経験者は未来永劫住めるのかと思いきや、実は20年の期限を設けていること、それを知った入居者の動揺する様子を2011年末頃に高校生であった私はテレビのニュースを通してみていた。あるニュースでは「阪神淡路大震災の被害者であることによる’’優遇’’、’’特例施策’’をいつまで続けていくべきか」、一般市民、他の住宅困窮者などとの公平性の問題について多くの時間が割かれているとあった。意見交換からは、全体の住宅困窮者からみれば、借上市営住宅入居者はすでに利益を受けてきたわけで、移転する不利益はあっても著しく不利益とはいえない、という議論が読み取れた。

 

このように公平性の問題を議論する上で、問われるべきは「平常時の住宅政策」である。公営住宅の供給は、戸数が限られるなかで、その対象を「住宅に困窮する低所得者」であって「高齢、障害、母子」世帯、最近では「災害被害者、DV被害者、ホームレス、犯罪被害者、子育て世代」といったカテゴリーに合致する住宅困窮者を選ぶ傾向を強めている。対象を限定して、公営住宅に入居できる人と入居できない人の間に生じる不平等に対応しようとするのである。

 

それらに該当する人たちを優先的に入居させ、20年以上経ち、高齢化が進行して困窮者が増した。当然の事態である。その現状を踏まえてか、移転することが必ずしも利益ではないという見解を持つ人も多く現れた。借上市営住宅に住むより、よい介護サービスを受けられるなどといった意見である。この見解にも一理あろうが、神戸市の方針に反して公営住宅に住み続ける自由は制限されて当然なのか、とも思うのである。やはり、平常時の住宅政策が問われなければならない。

 

東日本大震災後の借り上げ仮設住宅に関する特例措置の意義とは裏腹に、政府の対応が後手にまわっていることの問題は大きい。阪神淡路大震災の復興住宅において、20年後に転居しなければならないと知らされた住民の不安は想像して余りある。住宅扶助の基準額改定の背景には「貧困ビジネス」という問題があり、劣悪な環境で暮らす生活保護受給が可能なほど低所得であるにもかかわらず、受給していない生活困窮者が少なくない。その方たちが生活保護受給に繋がり、「健康で文化的な最低限の生活」の拠点となる住宅確保の支援が求められる状況もある。未だなお仮設住宅に居住し続ける人の存在も含め、住居にまつわる問題が引き起こす共通の悩みは、これからの生活が見通せないことではないかと考える。

 

そう考えると、人間である以上当たり前のこととして保障されている権利さえ侵されている人たちが、明日に怯えず暮らしていける社会を実現できるまで、まだ長く時間を要するだろう。

 

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現実を直視することからはじまる共存社会

 

少子高齢化労働人口が右下がりを続ける中で「移民」という言葉を耳にする機会が増えた。そして残念なことだが、少なくともそれは欧米諸国においてネガティブな文脈で語られることが多い。フランスで起きた同時多発テロブリュッセル連続テロ事件、そこで生まれたトランプ大統領の誕生。本稿では「移民」をテーマに日本における彼らの受け入れを考察したい。

 

「移民」という言葉は非常に曖昧である。というのも、移民に定義はあるものの、それは一つではなく、「移民」というテーマで議論がなされる時も、しばし識者の中でもその捉え方が異なる。国連が定める定義では、移住国を12ヶ月以上離れ、移動先の新たな国が通常の居住国となった者を移民と定義している。ここでの指標は、国籍を超えた移動と移動先での居住期間であり、国籍は問われていない。そのため、移動を経験していない二世以降は、このカテゴリーに含まれないが、居住国の国籍を取得した一世は含まれる。また、たとえばフランスでは外国で生まれた出生時にフランス国籍を持っていないものを、アメリカでは永住権を持つ外国人を「移民」と定義しており、前者の「移民」には国連定義と同様、外国人と国民の両者が存在するが、後者の「移民」は外国人の一部である。他方で、ドイツでは移民を定義していないが、外国人労働者との対比で「移民」が捉えられていると推察される。

 

では日本はどのような「移民」の定義を持っているかというと、ドイツ同様、明確な定義を持っていない。だが、アメリカにならって永住を前提に入国を認める外国人を「移民」と捉えており、その意味での「移民」を日本は受け入れていない。本稿では日本国籍取得者を含め、定住している移住一世及びその子孫を広義の「移民」と捉えることにしたい。注:本稿では文脈に応じて「移民」を「外国人」という言葉に置き換えて使用している。

 

日本は移民を政策的にどのように受け入れているのだろうか。戦後、西ドイツやフランスなどは、国外から労働力の調達で不足する国内労働力を補った。一方、日本は、男性正規労働者の長期労働、農村地域からの余剰労働力の吸収、主婦などの非正規雇用労働者の活用によって、国内労働力のみで拡大する労働力需要を満たした。日本は度々、他の先進国から「人口に占める外国人の割合が低い」と外国人受け入れの門戸を広げるように指摘されるが、外国人割合が低いのはこのためである。ただし、高度経済成長期を支えた国内労働力の中には、サンフランシスコ講和条約発効とともに日本国籍を剥奪された旧植民地にルーツを持つ移民が含まれていたことに留意が必要だ。

 

その後、プラザ合意を契機とした周辺アジア諸国との経済格差の拡大、従来の外国人労働者受け入れ国である中東産油国の不況といったプッシュ要因もあり、労働市場の需要に応えるかのように、工場や建設現場、飲食店などで海外からの労働力を多数みかけるようになった。従来は、労働力を送り出す側であった日本も、経済発展とともに豊かになり、少しずつ受け入れ国になってきている。

 

1998年、専門的・技術的労働者は’’可能な限り受け入れる方針で対処する’’、一方で、単純労働者は’’十分慎重に対応する’’という基本方針が閣議決定され、入管法が改定された。この98年の入管法の改定以降、いわゆる「単純労働者」の受け入れの是非が、移動局面の移民の争点の一つとなるが、いかなる職業が「単純労働」に該当するかの明確な区分があるわけではない。入管法が規定する27の在留資格のうち、教授や技能など、就労を目的とする14の在留資格に該当する労働者が専門的・技術的労働者とみなされ、それ以外の職種に従事する者は、入管法上は「単純労働者」に分類され、労働者としての入り口から入国することは認められていない。

 

法務省の調べでは、平成29年6月時点での在留外国人数は約247万人である。専門的・技術的労働者のみではなく、大学や語学学校で学ぶ留学生、専門的・技術的労働者や留学生の家族、途上国への技能等の移転を目的とする技能実習生、日本人や永住者の配偶者など、多様な外国人が日本で暮らしている。

 

外国人雇用状況の届け出をみると、専門的・技術的労働者が全体の2割以下であるのに対し、日系人など就労に制限のない身分または地位に基づく在留資格を持つ外国人、技能実習性、アルバイトする留学生など、専門的・技術的労働者をフロントドアからの来客とすれば、彼らのようにサイドドアからの来客が多数を占め、「単純労働」に従事している外国人も少なくない。コンビニやスーパー、居酒屋など、日頃我々が目にする職場のみでなく、建設現場や産業廃棄物処理工場、ビル清掃やホテルなどのリネンサプライ、農業や水産加工工場など、さまざまな場所で「単純労働者」は働き、日本社会の基盤を支えている。

 

彼らへの処遇の面を考察してみると、国民年金国民健康保険への加入、児童扶養手当の支給、公営住宅への入居が外国人にも認められるようになったのは、国際人権規約や、難民条約の締結、発効を受けてのことである。そのため、在日コリアンやオールドタイマーは十分な社会保障もないなか、厳しい就職差別や住居差別にさらされ、戦後の日本を生き抜かなけれなならなかった。戦後半世紀以上を経て、日本人との格差は次第に縮小しつつあるとはいえ、今なお雇用機会の差別が根差しているという指摘もある。

 

労働基準第三条には「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱いをしてはならない」と明記され、労働制度的平等が保障されているのにもかかわらず、労働相談の現状では、賃金その他の雇用条件において、外国人が平等に扱われていない実態が多く報告されている。

 

彼らの子どもへの教育に関しては制度的平等ですら保障されていない。よく問題とされるのは、義務教育の対象が国民のみであることだろう。その結果、就学年齢相当にあるにもかかわらず、学校に通っていない不就学の子どもが生み出されている。基礎的な学習の機会を剥奪され、社会のルールを学ぶこともなく大人になっていくとしたら、将来の選択肢が極めて限られてしまうことは容易に想像できるであろう。もちろん希望すれば日本人と同様に学校に通うことが認められてはいるが、そこでの教育は、日本人を前提とした日本語での授業である。そのため、日本語の能力が十分でない子どもは、学習上の困難に直面する事になる。不十分な日本語ゆえに授業内容を理解することができず、成績評価が低くなり、高校進学においてもハンデが大きく進学率も低い傾向にある。

 

外国ルーツの子供にとっての壁は日本語だけではない。「同じ」であることが求められがちな日本の学校の中で、彼らが持つ「違い」が正当に評価されず、いじめの原因となったり、自らのルーツを否定したり隠したりしてしまう子どもも多い。その結果、自己肯定感を持てず、社会で生きてゆくための十分な資源を獲得できないまま、若年で労働市場に参入する子どもも少なくはない。

 

労働において、日本人と外国人の間には社会的経済格差が生じていることは前途の通りであり、日本に限らず、国籍を越えた労働力移動において、経済的に貧しい国からの移住一世が、受け入れ社会の低い階層に参入せざるをえない傾向にあることも事実である。だからこそ、彼らを社会の底辺に押しとどめてはならないという教訓を、日本は受け入れ先進国である欧米諸国の経験から学ぶべきではないだろうか。とりわけ、二世以降が、自らの可能性を実現することで、親世代の不平等を克服し、社会経済的に上昇できる環境を整えていくことは極めて重要である。けれども、平等化の措置である教育が、現状ではむしろ格差を再生産するものになってしまっているのである。

 

高校入試における外国人生徒のための特別措置、教員やNPO関係者らによる熱心な指導や支援、本人や家族の懸命な努力によって大学進学を果たし、ロールモデルとして活躍する若者が誕生している一方で、今なお多くの外国ルーツを持つ子どもは、可能性を十分に発揮する機会に恵まれず、時として、この社会に居場所を感じることのないまま生きていかざるをえないのである。

 

繰り返しにはなるが、日本には、旧植民地にルーツをもつオールドタイマーに加え、1990年代後半以降に増加するニューカマー、そして、日本国籍を取得した者や国際結婚の子どもなど外国ルーツの日本人といった移民が暮らしている。しかしながら、ホスト社会の我々の多くがこの事実に気づいていない。彼らの存在に関心を払うことなく、民族や文化の異なる人々をどのように社会に迎え入れるかを学び合う機会もほとんどない。移民を排除しようと、ヘイトスピーチやヘイト運動を行うのは一部の人かもしれないが、我々の多くはそのような排除を黙認・放置してしまっているのであろう。

 

彼らがおかれている状況についても同様である。彼らが、制度的不平等や実質的不平等ゆえに、社会経済不平等を経験し、格差が世代を超えて再生産される傾向にあることに、我々の多くは無関心なのではないだろうか。このような態度に対する反省なしに、人口減少・労働力不足への対応として、より多くの移民の受け入れを進めても、容易に排外主義に共感する者を排出してしまうのだろう。

 

「我々」と「彼ら」という境界を超えて、日本社会を共につくる対等な構成員として向き合うことが一人一人に求められている。

 

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ボトムアップ政策としての住宅政策

 

近年、多くの政党が教育の無償化を政策課題に掲げるようになった。おそらくそれは、他の先進国と比べ望外に高い授業料や相対的貧困率が上昇する中で、経済的に高等教育への進学を諦めざるえない人たちが出てきたことが主な要因であろうと思う。確かに教育の無償化は(可能なら)早急に実現すべきだ。現に、一部の有能な学生が高騰する授業料を理由に進学先を海外に移している。他方で、私は住宅政策にも本腰を入れるべきだと考えている。

 

現在、年収200万円未満の若者では親との同居率が77%にも達している。年収200万円と聞くと「そんな安賃金で働いている人はいないだろう」という声が聞こえてきそうだが、非正規雇用率が上昇していることや、大学の進学率が上がっていることを踏まえると、年収200万円未満の若者に当該する層は、意外にも多い。彼らは、親の年金や援助が途絶えると途端に生活が苦しくなる立場にある。

 

もし、家賃が安くなったり、住宅手当が利用可能となれば、パラサイト世代でもある彼らは、一転、賃貸世代の予備軍になる。もちろん東京や神奈川、名古屋や大阪などの大都市ではすでに、狭小かつ高家賃のため齷齪する賃貸世代現役軍のワーキングプアも少なからず存在している。私は彼らへの支援こそ早急に必要なのではないかと思う。かくいう私も、その現役軍の一人である。大都市で治安や交通の便を考慮すると、様々な点を妥協しても家賃のみで毎月5万円強の支払いがある。

 

相対的貧困率の上昇、中間層の解体という背景から、イギリスは社会民主主義的な再配分の文脈のなかで、住宅政策を次々と変容させてきた。社会変動という名の同じ轍を踏む日本は、イギリスの住宅政策から学ぶべきことが多くある。そこで本稿では、「日本は住宅政策を行うべきだ」という筆者の前置きのもと、イギリスの住宅政策から今後の日本に必要なことを考えていきたいと思う。

 

経済学を専攻したことのある学生にとって「トリクルダウン理論」という言葉は聞き覚えがあるだろう。これは”富めるものが富めば、貧しいものにも自然に富が滴り落ちる”という経済思想である。新自由主義の代表的な主張の一つとされ、これまで富める者とそうではない者が二分化された時にも、この理論が肯定されてきた。しかし現状はそうではなく、どんなに強者が潤おうとも、その富が弱者に滴り落ちることはなかった。少なくとも、現状はそうで、未曾有の格差社会がそれを雄弁に物語っている。

 

2014年1月のガーディアン紙は「記録的な数に達した、親と同居する若者」というタイトルのもと、新たな調査によれば、20-34歳の4分の1以上がいまだ親と同居している」という調査報告を発表した。1996年以来最も高い割合であると警鐘を鳴らしている。同紙に掲載された国家統計局の調査によれば20-34歳で親と同居している若者は、96年の270万人から2013年の330万人へと上昇しており、この数字は同世代の若者の26%に該当する。ちなみに日本のこの世代での親との同居率は45%である。

 

イギリスの大学への進学率は、98年の教育改革法によるナショナルカリキュラムの導入、92年の教育法による旧来の大学と総合技術専門学校との統合により上昇した。これに対して、2000年代に生活費給付奨学金は給付型からローンへ変更され、授業料が導入されたことにより、卒業後の就職状況が良好ではない時勢においても増大する借金を抱えることになった学生は、両親の家に戻ることを余儀なくされている。さらに、不安定な労働市場のもとで、多くの若者は家賃や住宅ローンの頭金支払いが困難となり、特にパートタイムや有期雇用にある男性は、実家にとどまることになった。鉄の女とされるサッチャーは1980年代に公営住宅購入権を導入、その後30年にわたって250万戸の公営住宅が減額された価格でその移住者に売却された。こうした状況のもとで公営住宅の割り当ては、子どもを持つ家庭、妊娠している女性、ホームレス世帯が優先されている。

 

2004年には25-34歳までの世帯の24%が民間賃貸を利用していた。これが2014年には46%に上昇、同時期にローン支払中の持家世帯は54%から34%への下降した。この10年で急成長している民間賃貸では、これまでのように学生など移行過程にある人だけではく、持家取得が困難となっている情勢から、子どもを持つ世帯の利用が増大しつつある。

 

2014年にOECDが発表した調査レポート「格差と成長」でトリクルダウン経済の拒絶と富裕層への高い課税という主張は、ボトムアップの政策を実現させる政治が重要となっていることを示唆していた。上手く機能しなくなった新自由主義から決別し、分配政策を見直す政治勢力が登場した。こうした政治勢力は、学費の支払い、卒業後の就職難、高額な家賃に直掩している若者の強い支持を取り付けている。彼らの最も大きな政治スローガンは「アフォーダブルな賃貸住宅と供給に向けた住宅政策の再構築」である。

 

2014年4月、イギリスのメイ首相は6月に総選挙を実施する意向を表明した。これを受けてイギリス労働党党首のコービンは、マンチェスターでのキャンペーンにおいて「第一優先課題は、住宅危機への対応であり、社会的にアフォーダブルな家賃の公営住宅建設と民間賃貸への適切な規制である」と表明、住宅は、持家を所有できず、高騰する家賃と苦闘している賃貸世代にとって中心的な問題であると語っていた。ここでいう「社会的にアフォーダブル」とは、公営住宅が縮小するなかで、その割当てが、子どもをもつ家族、妊娠している女性、ホームレス世帯が優先されている現状から、賃貸世代にもアクセス可能な社会住宅へと変革していくことを意味している。

 

コービンの労働党が総選挙にむけて発表したマニフェスとでは、高等教育について保守党のもとで1)大学授業料が3倍の年間9000ポンドに上昇したこと2)生活費給付奨学金は廃止されローンとなったこと3) 卒業する学生は、平均4万5千ポンドの負債を抱えながら就労を開始しなければならないことが指摘され、給付型の奨学金の再導入、授業料の廃止が主張されている。また、民間賃貸については、1)家賃規制2)借家人に仲介料を貸すことの禁止3)劣悪な住戸を回避するための新たな住居基準の導入4)18-21歳への住宅手当廃止の撤回が、公営住宅については1)RTB(公営住宅移住者が当該住宅を購入し、所有できる権利)の棚上げ2)政府による自治体の建設休止を解除し、30年間にわたる大規模な社会住宅を供給することが明記されていた。

 

冒頭で述べたように、こうした文脈による社会変革への期待は日本においても強まってきているが、ここで留意すべきは、賃貸世代への対応をめぐる政治状況は、住宅政策の様態によって大きく異なる、という点である。たとえばイギリスとアメリカのジニ係数は2013年時点でそう変わらないが、住宅手当の対GDP支出比率や、その受給率において大きな差がある。住宅手当の対GDP比は、13年時点でイギリスが1.45%と他のOECD諸国と比べても高水準なのに対し、アメリカはわずか0.27である。

 

イギリスは多くの貧困世帯に住宅セイフティーネットを充足させようとしてきたため、幅広く住宅手当が受給されている。就労しているワーキングプア、求職者手当の利用者、生活支援手当の利用者、年金クレジットの利用者、就労できず所得補助に依拠している利用者などである。一方アメリカでは、貧困世帯が多いにも関わらず、住宅手当はentitlement program(あるニーズに対して受給資格をクリアすれば、予算の上限に制約されることなく受給しうる社会保障制度)になっていない。

 

住宅手当を国際比較の観点から長年研究しているピーターケンプは、「遅れた福祉国家」と呼称されている南ヨーロッパ諸国(ギリシャポルトガル、スペイン、イタリア)について、国の制度としての住宅手当の不在を指摘している。その理由として、1)広範囲な社会保障システムが未発達なこと2)そうしたシステムに代替する家庭支援ネットワークに過度に依存していること3)かなりの若年者が30歳まで両親の家に移住していること4)自力による持家所有が支配的であることを指摘している。南欧以外のヨーロッパ諸国においても、持家率が6割を超える国は少なくない。しかしそれらのほとんどは、今なお10-20%ほどが公的な住宅に居住している。一方、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガルの持家率は6-7割に達しているのに対し、公的な住宅の居住率は、それぞれ1%、5%、2%、8%と過少である。ちなみに日本の公的な住宅への居住率は5%である。

 

すなわち、戦時中の家賃統制を戦後も継続しながら社会住宅建設を推し進め、社会住宅の家賃上昇とともに低所得階層を対象とした住宅手当を導入、この住宅手当は民間賃貸にも適用されていくという「物への助成」から「人への助成」への転換の経路を、南欧や日本は経ていないということを、これは示唆している。

 

収縮する中間層が持家取得にゆきづまっている点で、程度の差はあれ日本とイギリスは共通している。ここで留意すべきは、イギリスの場合、トリクルダウンの住宅政策からボトムアップのそれへの転換には、新たな財政支出を必要としないことである。上昇する家賃と、停滞する賃金という状況が継続するならば、その差額を補塡しようとする住宅手当は拡大し、財政政策を圧迫することになる。これに対してコービンから影の住宅大臣に任命されたヒーリーは「現状では今後5年間における住宅手当への政府支出は累計1200億ポンドにのぼり、そのうち500億ポンドは民間家主に消費されるが、一方で今後5年間での新たなアフォーダブル住宅の建設に必要な投資資額は50億ポンド以下にとどまる」と彼は推計している。さらに、こうした状況を改革する労働党の抜本的な住宅政策について、「低家賃住宅建設への公的投資は、住宅手当の支給を減少させ、長い目で見れば納税者に利益をもたらす。労働党は20年までに毎年10万戸の新たな公営と住宅協会の住宅を建築し、その投資は住宅手当を節約することで十分に補填できる」との考えを説明している。

 

一方、「物への助成」から「人への助成」への経路を経ていない日本では、ボトムアップの住宅投資への転換をしようとすると、新たな財源支出を伴う。パラサイト問題、民間借家への若年転読世帯の滞留という進退減少を放置すれば、かれらの多くは単身のまま貧困世帯へと移行、そのツケは生活保護費のさらなる拡大へと繋がっていかざるをえない。若年層も入居できる社会住宅、ワーキングプアなどが社会手当として利用できる住宅手当の導入は、政府の財政負担を増大させるとしても、未婚若年者のカップル形成を容易にし、かれらが共稼による税の納入者となることで住宅への投資は回収され、結果として実質的な財政負担を軽減することになる。

 

日本の若者が直面している問題状況は、イギリスのそれと類似しており、その活動は、住宅政策の再構築を要求する欧州の社会運動と共鳴している。若者の負担を軽減させるため、また女性の出生率を上げるために、今の日本に必要なのはボトムアップ政策としての住宅政策ではないかと考える。

 

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LGBT~みなが生きやすいと思える社会の構築〜

 

2015年6月26日、アメリカで同性婚が合憲だという判決が最高裁で下された。日本はこれ以上、LGBTの人たちの当たり前の権利を等閑視できなくなった。数日前、Yahooのトップにスペイン人女性と日本人女性がスペインで同性結婚をしたという記事が掲載されていた。詳細についてはぜひ記事を読んでほしい。

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私にも同性愛者の知り合いがいる。高校生の頃、彼の家で話した日に「男性の肉体に生まれたことへの幼少期からの違和感」を告白された。当時高校生だった私は、同性愛者に対する理解も十分になく「自分とは違う人間なんだ」と少しだけ距離を置いてしまった。次に彼と会った時、彼は高校を中退していた。

 

LGBTが日本で関心を集めるようになったのは、つい最近のことだと思う。1998年10月、埼玉医科大学総合医療センターの原科考雄教授が日本国内初の公式な性別再判定手術で日本発のFTM( Female to Male) の手術となる性転換手術を行った。それを機に、性同一性障害という概念が日本で広まっていった。2000年代に入ると「3年B組金八先生」などでメディア露出が増えた。一定要件のもとに性別を変更できる「性同一性障害特例法」が制定され、性同一性障害という言葉の知名度は急速に向上した。

 

そのような背景を考えると、ちょうど私は、この性同一性障害という概念が広まっていく過程とともに大人になったことになる。日本で初めて性転換手術が行われてからちょうど20年を迎えるが、今日の日本で、LGBTに関して変わっていない部分が大きいと思う。

 

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去年の5月に書いた記事でも問題提起したように、小中学校の教科書ではLGBTのことは触れられていない。子供たちには正確な情報がなく、教える側の教員の理解も十分とは言えない現状がある。

 

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岡山大学の中塚教授によると、1999-2012年に岡山大学ジェンダークリニックで同一性障害と診断された患者のうち、自殺をしようと考えた人が59%、自傷や自殺未遂をしたことがあると回答した人が28%、不登校になった人は29%にのぼったそうだ。性同一性障害と診断された半数以上の患者は自殺を考えたことがあるという結果は、非常に深刻なものだと思う。

 

不登校の原因としてはトイレや制服、修学旅行などが挙げられている。日本では去年ドン・キホーテユニセックストイレ(LGBT用トイレ)を導入し注目を集めた。性同一性障害を抱える人たちは、誰にも本当のことを話せない孤立感やそのような自分を容認できないといった問題を抱えている。LGBT用トイレの導入は様々な議論を呼び起こしたが、政策の是非は置いておき、このような試みが取られたことには十分な評価ができる。

 

性同一性障害を抱える人のうち、高校卒業までに誰にもカミングアウトできなかった人の割合は、男性で約半数、女性で約三割に上っている。思春期から大人へと成長するこの年代で、自分の本当の気持ちをひた隠しにすることは相当な苦痛だろうと思う。2年前、一橋大学のロースクールに通っていた25歳の男性が、友人に性同一性障害であることをカミングアウトした結果、彼が同性愛者であるということを周囲に広められ、自殺に追いやられたという悲しい事件があった。出生時の性は男性だが、性自認は女性で「男らしくない」とみなされる男性は特に深刻ないじめを受ける。言葉による暴力から、身体的な暴力まで、また度を越えれば、服を脱がされるなどといった性的な暴力を受けている。

 

こうした悲惨な状況にようやく国は重い腰を上げ、2015年4月に文部科学省から「性同一性障害に係る児童生徒に対するきめ細やかな対応の実施等について」という通知が出された。自分の性自認に違和感を覚える児童が安心して通学できるような配慮の方法や、LGBTの生徒全体がいじめやハラスメント、孤立を味わうことのないような環境づくりの必要性について触れている。日本はようやく国レベルで取り組みを始めたようだ。

 

教育の現場で大人たちがやれることはたくさんある。まず必要なのは、大人自身が正確な知識を得ることだ。LGBTに関する研修の機会があれば参加し、なければ地域の中で企画するのもよいだろう。今の大人も学生時代に十分な性教育を受けていない。未だ多くの大人が「性同一性障害」と「同性愛」の違いさえ認識できていない。私のような大学生の中には「これまで生きてきてLGBTの人と出会ったことがない」という学生もいるだろうが、日本にはLGBT層の人が8%いるとされている。出会ったことがないのではなく、カミングアウトされていないだけである。

 

私が在学する大学のある講義で、教壇に立った教員が性同一性障害者であることをカミングアウトした。その講義の終わりに「性同一性障害について考えることを書け」というレポートで「長年の友人に性同一性障害であることを告白されました。私はこれまで彼の症状に全く気づかす、安易な言葉で彼を傷つけてしまった場面があったとおもい、今でも後悔しています」と、ある学生が書いたそうだ。私自身、冒頭で述べたように、性同一性障害者や同性愛者についての理解が不十分になかった時期があった。今の自分に「彼らに対する理解は十分か?」と問い直した時、素直に首を縦に振れるであろうか?

 

最後にカナダで毎年開催されている「ピンクシャツの日」を紹介してこの記事を書き終わることにしたい。

 

Pinkshirtday(ピンクシャツの日)。カナダでは毎年、2月の最終水曜日を「いじめ反対の日」に掲げ、国を掲げてピンク色のシャツを着ていじめ撲滅を訴える活動をしている。2007年、カナダのノバ・スコシア州の男子高校生がピンク色のシャツを着てきたというだけで上級生から「ホモ」などとからかわれ暴力などのいじめにあった。それを知った二人の男子生徒がピンク色のシャツを50着ほど購入し、クラスメートのシャツを着るようにメールで依頼。翌朝、学校に行ってみると、連絡をしなかった生徒にもメールが届いており、校内にはピンク色のシャツを着た生徒やピンク色の小物を持った生徒であふれかえった。それ以来、その生徒に対するいじめはなくなったのだという。

 

実のところいじめられた生徒がLGBTだったのかどうかはわからないが、違いを理由にいじめられる人を守るための力は、一人ひとりにあるのだ。

 

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2016年6月15日、イギリスの同性愛者向けの雑誌「アティテュード」は次号の表紙がウィリアム王子だと発表した。彼の表紙の横には"NO ONE SHOULD BE BULLIED FOR THEIR SEXUALITY OR ANY OTHER REASON"(性的志向であれ他の理由であれ、いじめられることはあってはならない)という言葉が添えられている。

 

彼は同性愛者ではないが、異性愛者であっても、立派にこのような発言ができるのだ。LGBTに関して”後進国”と揶揄される日本は、まだまだ理解の途上にある。我々一人ひとりがほんの少し理解を深めるだけで、彼らが生きやすいと思える社会を構築することは可能だ。

 

未来の社会に誰も置き去りにしてはならない

準強姦にみる現行法の穴

 

準強制性交とは、相手に薬物や酒などを飲ませて抵抗不能な状態にしたり、既にそのような状態にある相手に対し、性交を強要する行為を指す。今は準強制性交と呼ばれるが、それまでは準強姦と呼ばれていた。暴力や脅迫によって性交を強いる強姦では、身体にアザや傷が生じたり、衣類等が損傷するといった証拠が残りやすい。ところが準強姦では、被害者の意識レベルが著しく低下した状態で性交が強要されることから、証拠が残りにくく、立証が難しい犯罪だと言われている。また、抵拒不能とは一体どのような状態なのかについて必ずしも明確ではなく、裁判で議論になるケースは多い。

 

抵拒不能とは、抵抗が著しく困難な状態のことだと言われている。もちろんそれは相対的な判断であるから、暴行や脅迫の様態、時間的・場所的状況、被害者の年齢等の事情を考慮して客観的に判断されることになる。手段の強度を緩めると被害者保護につながるように見えるが、現実はそうとは限らず、犯行困難の程度を判断するときに被害者の態度が問題とされることがある。そして、抵抗する余地があったのに、なぜ抵抗しなかったのか?なぜ叫ばなかったのか?などの残酷な質問が被害者を打ちのめす。性交を同意している者に性交のための暴行・脅迫を加えることはないから、被害者が抵抗をしなかったように見えることが同意を推定され、暴行・脅迫の評価にプラスの影響を与えるのだとすれば、なんともそれは本末転倒な議論である。

 

準強姦でも、薬物の種類や量、摂取したアルコールの量、性行為に至るまでとその後の状況などの情況証拠から慎重に推論を重ねて性交時の同意の有無が認定されることになるが、意識朦朧状態での性交について、拒絶・抵抗しなかったことを「抵拒不能」の判断資料とすべきではない。「抵拒不能」は、錯誤に基づく同意の場合にも、心理的な抵拒不能として問題になる。過去の裁判例では、プロダクションの経営者がモデルになるのに必要だと偽って、被害女性に性的行為を同意させたようなケースがある。このような場合に、被害者の意思決定の自由が不当に制限されたとして、準強姦の成立を認めた裁判例も多いが、性交自体についての錯誤はなく、動機の錯誤に過ぎないから準強姦罪は成立しないという学説も少なくない。

 

虚偽の内容や程度にもよるが、加害者は被害者の弱みに付け込み、誤信させたことによって簡単に性行為の同意を取り付けたのであるから、被害者の人格を否定し、性的欲望の単なる客体に貶めたとして準強姦罪や準強制わいせつ罪の成立を認めてもよい。騙して得たものが金品ならば詐欺罪になるのに、それが被害者の身体ならば許されるのはどうなのか。

 

去年、刑法の性犯罪規定は大きく改正された。その背景には、性犯罪を個人の性的自由を侵す犯罪というよりも、人の性的尊厳を傷つける犯罪と見るべきだという意見も影響を与えた。性的自由を問題にすると、犯罪の成否が、被害者がどれだけ意思決定の自由を奪われたのかという量的な問題として矮小化されるおそれがある。性犯罪は、むやみに他人から性的干渉を受けない権利、すなわち性的不可侵性ないしは性的尊厳を侵害する犯罪行為ととらえるべきである。

 

同意の要件は、性犯罪の中心に位置付けられるべきではない。性的尊厳の否定へとつながるような行為がなされたのかどうかが問題の入り口であって、被害者の同意はその規範的なマイナスを埋め合わせる要件とされるべきである。被害者が同意の存在を否定するならば、同意があったとの行為者の主張に客観的に認められる程度の証明資料を用意できたような場合がその典型例であろう。そうでなければ、同意があったという抗弁を認めるべきではない。相手が性行為に同意しているという身勝手な誤信は、故意がなかったということと決してイコールではない。

 

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外国人労働者受け入れについて考えたい

 

 

 

2008年の1億2808万人をピークに日本の人口は減少に転じた。それを機に、日本ではどのようにして人口減少時代に対応するのかという議論が過熱してきたように思う。その一方で、日本が今日に直面する人口減少はもっと以前から予測ができたことは否めないだろう。歴史を俯瞰してみると、1920年から死亡率と出生率がともに減少傾向を示しはじめており、大正末期には既に人口動態は多産少死から少産少死へと移行していた。しかし、多くの国民が人口減少を問題視するようになったのは1989年だったように思う。この年は「1.57ショック」と言われ、合計特殊出生率が丙年の1966年を下回った。実際、1957年から1964年にかけて合計特殊出生率が置き換え水準を割り込んでいたことからも、人口減少の始まりから我々が認識するまでの間には長い時差を要したことになる。

 

一方で、筆者の問題意識は人口減少にはなく、人口動態が変化していくことにある。より詳細に言えば、人口動態が年々高齢化し、労働人口や子供の割合が減ってゆく少子高齢化である。従って本稿では、人口減少には紙幅を割かず、少子高齢化にスポットを当て、少子高齢化が進んできた背景を時代を遡って俯瞰し、今後日本がとるべき姿勢について検討、提言することを最低限の目標とする。

 

1970年、ローマ・クラブが「成長の限界」というレポートを発表した。このレポートでは、天然資源や環境汚染の観点からみて、既に世界人口は地球が許容できるレベルである「臨界点」に近づきつつあると警鐘を鳴らすものであった。このローマ・クラブが発表したレポートは世界的な関心を集め、中国では79年から一人っ子政策が導入され、インドではハネムーン政策と呼ばれる、結婚後2年間子供が産まれなかったら現金5000ルピー(約9200円)、もう1年間産まれなかったらさらに2500ルピー(約4600円)がもらえる政策が導入された。ここから言えるのは、日本のみではなく世界全体で、出生率の低下は「望ましい状態」と認識されていたということである。だがその結末は少子高齢化であった。今日の世界では、アフリカの国々と一部の南米諸国を除いて、ほぼ例外なく多くの国で少子高齢化という問題に直面している。

 

1945年の終戦時には、日本の合計特殊出生率は4を超えていた。一方で、1949年に当時の厚生大臣であった林譲治は、「現在の人口増加状態がこのまま放置されては日本の将来の復興にとって由々しき問題となる」と発言している。林はアメリカの家庭の平均子供数にならって、子供数を2.5人程度にすべきと主張している。民主自民党は、当時移民が不可能であるということから産児制限が「重大な基礎の方法」であると肯定している。

 

実は、当時日本がここまで人口増加に躊躇だったことには理由がある。それは日本が45年にポツダム宣言を受け入れるまでに起きた数々の凄惨な戦争の要因を、日本国内の人口圧力に起因していたことにある。昭和20年9月11日に発刊された朝日新聞では、「狭小なる国土に8千万人の人間を養わねばならぬ事態となって、海外進出の問題は今後の課題として新しい意義と重要さを持ってくる」と述べられ、国土面積の制約から当時の8千万人という人口でも過剰であり、それが戦争の原因となったことを示唆しているのである。戦争の残像すら知らない現代の国民にとっては、少子高齢化を働き方や日本の文化に起因しようとする意見が一般的である。しかし歴史的にみれば、それより以前に人口減少を地球の有限性やエントロピー、人口圧力が戦争の原因だったとして肯定してきたのである。

 

確かに、地球の資源は有限である。このまま未曾有の人口増加が進むと、地球の許容レベルを超え人間の生命を脅かす問題となるのであろう。しかし、その段階に入る前に、意図的に人口を抑制することで社会は少子高齢化に直面するのである。冒頭でも述べたが、少子高齢化は100年も前から予測可能であった。だが我々は人口が増加する日本にのみ問題認識を持ち、人口を抑制することで人口動態が変化し、社会が少子高齢化に直面することには鈍感であったのだ。

 

しかしながら、今となっては後の祭りだ。我々は少子高齢化の釜中にあるのだ。ゆえに今後我々がとるべき姿勢について建設的な議論の場を設けていかなければならない。そこで残りの紙幅は、少子高齢化が原因で直面している「労働不足」問題に注視し幾つかの提言を行っていきたいと思う。具体的には、日本の労働力不足を補うために期待される「外国人労働者の受け入れ」に対して、本当にそれが現実的に日本の労働力不足に寄与するのかということを検討していきたい。

 

総務省の発表によると、日本の労働人口は総人口に先駆けて1998年にピークを迎えてから減少を続けている。2015年平均では1998年のピーク時と比較して200万人少ない6598万人となっている。四国地方全体の労働人口が191万人であることから、この15年程度の間に、四国分の労働力が日本から消えたことになる。一般的に65歳以上の高齢者が総人口の7%を超えると高齢化社会、14%を超えると高齢社会、21%を超えると超高齢社会と呼ばれる。世界銀行の世界人口調査によると、2016時点で超高齢化社会に属するのは日本(26,86%)、イタリア(22,75%)、ギリシャ(21,60%)、ドイツ(21,45%)、フィンランド(21,02%)の5ヶ国のみである。その中でもとりわけ日本の高齢化率は顕著であり、日本は1994年に高齢社会、2007年に超高齢社会に突入している。今後日本の高齢化は更に深刻化し、2030年には総人口の3人に1人(31,6%)が65歳以上と予想されている。

 

一方、労働人口については、労働政策研究・研修機構が推計している。その推計によると、経済成長をゼロ成長と仮定した場合、2020年に6314万人、2030年には5800万人まで縮小する。これは2014年度の実績値に比べれば、2030年までの約15年間に700万人強の労働力を失うことになる。日本では1998年から2015年までの約15年間に四国地方相当の労働力が失われたが、次の15年では更に東海地方の労働力人口相当が失われるのだ。

 

 

2015年10月に発足した第3次安倍政権の目玉政策の一つに「一億総活躍社会」がある。少子高齢化に歯止めをかけ、50年後も人口1億人を維持し、家庭・職場・地域で誰もが活躍できる社会を目指すという。具体的には、同時に発表したアベノミクスの新しい「3本の矢」を軸に、経済成長、子育て支援、安定した社会保障の実現を目指している。経済面では「希望を生み出す強い経済」、子育て面では「夢をつむぐ子育て支援」、社会保障面では「安心につながる社会保障」がそれにあたる。

 

だが、労働政策研究・研修機構が発表している推計では、経済成長が回復して実質2%の水準になった上、若者や女性、高齢者等の労働市場への参加が進むという前提において、2014年時と比較して、2030年までに225万人の労働人口が減少するとされている。高齢者が今よりも5年長く働き、出産・子育て世代も働いたとしても、日本は今よりも少ない労働力で社会を維持していかなければならない。

 

そのような背景から、日本は民間と協力し衰退する日本の労働力を海外からの労働力で補おうと考えている。例えば、ローソンでは2009年より新規採用の3割を外国人にするという数値目標を設定し、2年後の2011年には3割の目標を達成している。また、ローソンはベトナムにおいて現地の人材教育機関と連帯し、日本への留学予定の学生に対して、コンビニエンスストアの業務等を学ぶ研修を開いている。これには来日する留学生に留学先付近の店舗で働いてもらおうと考えているからである。また、楽天は2010に社内公用語の英語化を宣言した。2014年に入社した開発職の100人中8割以上が外国籍と、外国人のエンジニア採用が進んでいる。またこれら以外の企業でも、管理職昇級の条件に英語の能力を要求したりと積極的に外国人労働者を採用しようとしている。

 

しかし、状況はそう楽天的とは言えないようである。というのも、少子高齢化が進み、労働人口の減少に直面しているの国は何も日本のみではないのだ。これまで生産年齢人口が増加の一途であり、労働者を送り出す側であった中国でも、2015年以降生産年齢人口が減少に転じ、2025年頃には中国においても総人口の減少が始まるのである。インドネシアではスハルトが画期的な人口抑制政策を行って以降少子高齢化が進んできた。日本が労働力不足を外国人労働者で補おうと雄弁に語るとき、「門戸を開けば日本に来てくれる外国人がいる」という前提がある。だが、実際はどうだろうか。

 

韓国で働く外国人労働者は2016年5月時点で約96万人であり、日本で働く外国人108万人と比べ若干少なくなっている。しかし、韓国の人口は約5150万人で日本の人口の半分以下である。台湾で働く外国人労働者は約60万人であるが、台湾の人口が日本の5分の1以下であることを考えるといかに日本で働く外国人労働者の数が少ないのかがわかる。今日、世界中の多くの国で直面している労働力不足だ。働く側にも選択肢があるのである。日本では長時間問題や所得水準(世界中の先進国と比較すると、日本の給与水準は決して高いと言えない)が直接の阻止要因となっている。また柔軟性のない教育や言語問題、地理的な距離も外国人が日本を敬遠する要因として考えられる。

そんな日本とは対称的に外国人の受け入れ体制が整っている国に北欧のスウェーデンが挙げられる。スウェーデンの例は日本にとって参考にすべき点が多いように思うので、簡潔に紹介したい。

 

スウェーデンの第二の都市ヨーテポリとその周辺の西スウェーデン地域には、世界各国の大企業が集積している。この地域では世界から高度人材を確保するために”Global Talent Gothenburg/West Sweden”というプロジェクトが始動している。同プロジェクトは、国際的に高度人材を獲得する競争が激化する中、この地域に高度人材を呼び寄せるためには何が必要か、という項目の洗い出しが行われている。主なアクションプランの内容としては、情報共有のためのホームページ「Move to West Sweden」の開設、学生の職探しの支援、配偶者の職探しの支援、家探しの支援などが含まれている。日本は政府主導でこのような先駆的な取り組みを行っている。

 

これはスウェーデンの事例だが、イギリスや韓国、オーストラリアなどでも先駆的な取り組みが行われている。このような国々の取り組みを知るたび、外国人労働者を「呼べば来る」と捉えている日本の崩壊する未来が透けて見える。繰り返すが、これまで労働力を供給する側であった途上国の国々でも、近年着実に少子高齢化に向かっている。そのような時代の中で、どのように外国から労働者を呼び寄せるか、日本は政府を中心に早急に建設的な議論をしていく必要があるのではないだろうか。

 

 

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