Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

若者の政治参加の意義

 

2015年に公職選挙法が改正され、満18歳以上に選挙権が付与され、これにより一部の高校生が新たに有権者となった。これは国民の制度的政治参加を拡大する政治政策改革として肯定的に評価できるものであったと思う。しかし、民衆の政治参加拡大の世界史的展開過程に照らして言えば、選挙権獲得による制度的政治参加の拡大に先行して存在するはずの一連の非制度的政治参加、とりわけ選挙権獲得のための闘いを経ることなく、いわば若者の頭越しに選挙権が付与されたという事実は見逃してはならない。当事者からの明確な政治参加要求どころか、散発的な非制度的政治参加さえほとんど見られないなかで、フルセットの政治参加が承認されたのである。このため、主権者教育や政治的教養教育の充実など、政府の施策によって若者の政治参加意識を育ているという奇妙な逆転が起きている。教師はこれまで授業で政治的な事柄を取り上げることを制限されてきたが、今後は上からの「政治的教養の教育」を担わされることになった。そして、政府は教育の中立性確保を名目に教育の自由と自律性をこれまで以上に制限しようとしている。このままでは、学校という場が、政治に利用されかねない。

 

16年の参議院議員選挙前には「自分の一票を投ずべき候補者や政党をどのようにして決めてよいかわからない」という趣旨の若者の声が多く聞かれた。「政治のことがわからない自分が選挙に参加していいのか」という誠実ささえ感じるこの発言には、選挙権行使への戸惑いが現れている。これに応えるように、多くの高校で、選挙制度や投票方法に関する特別授業や、選挙公報や新聞を利用した模擬投票などが行われた。政治の仕組みや選挙制度をわかりやすく解説した記事を搭載した雑誌や新聞も多く見られた。しかし、参議院議院選挙終了を潮目に、主権者教育、政治的教養教育は急速に後退した感がある。この原因を考えると、若者の政治参加と政治的教養教育をめぐるもう一つの問題が見えてくる。

 

その原因は第一に、主権者教育、政治的教養教育に自発的、主体的に取り組む教師は全体から見ればごく少数に留まり、法改正後最初の国政選挙に備えるという外在的要因がない限り、学校内部からこれらを率先して行おうという動きは生まれにくいことである。この背景には、教師が授業などで政治的事柄を扱うだけで「偏頗教育」のレッテルを貼られかねず、学校教育において政治はアンタッチャブルな領域とされてきたという事情がある。改憲を目指す安倍政権のもとで、政府与党関係によるマスコミへの露骨な介入、憲法擁護や平和主義に関する集会への公共施設使用拒否や後援拒否など、安倍政権の政治的見解に沿わないと判断される行為への露骨な抑圧が強まっている。

 

学校教育について言えば、安倍政権は教科書の旧日本軍による集団自決強制や従軍慰安婦などを記述するのを制限したり、教科書への政府見解記載を強要できるように教科書検定基準を改定したりして、教科書の記述を政権の意向に沿うように作り替えさせている。道徳に関して言えば、全教科の教育目標に道徳が位置付けられただけではなく、文部科学省でさえ積極的でなかった教科化が政治主導で強行された。また、生徒やその保護者と称する人々が匿名で特定の授業を名指しで偏見教育だと告発し、自由民主党がウェブサイトでそういった密告を推奨する暴挙に出た。本来なら学校、教員を不当な支配から守るべき立場にある教育委員会がむしろ率先して攻撃する側に回ってしまう事例も少なくない。

 

このように自由にものの言えない雰囲気が熟成され、教育に対する不当な支配介入を目的とした攻撃が強まる中にあって、授業で政治的事柄を扱うことに教師がリスクを感じるのは当然のことである。また、こういった事態を感じ取って、政治的なものに関与することを避ける生徒もいるだろう。

第二に、主体的な政治参加意識をもち、積極的に政治的活動に参加する高校生や若者も少数にとどまっており、高校生自身の政治的教養教育に関する学習要求もそれほど強くはない。政治についてもっと学びたいという学習要求が高校生自身から表明されれば、生徒の要求に応えようとする教員が現れてくるだろうし、教育への支配介入を押し返す取り組みも活発化するかもしれないが、現状では教員のモチベーションを高める教育内在的要因は乏しい。受験勉強のように強い外在的圧力がかかっている場合は別として、生徒の主体的な学習は生徒自身の内在的学習要求に支えられなければ成立しない。制度的か非制度的かにかかわらず政治参加の機会を持っている高校生たちは、自ら政治的事柄に関する学習の機会を求め、主権者教育、政治的教養教育への要求を強めるはずである。政治的教養に関する学習意欲の低さは、生徒の政治的活動をほぼ全面的に禁止し、学校教育全体を通じて系統的に生徒が政治な事柄に関心を持てなくしてきたことと無関係ではない。日本の若者の政治参加や政治意識の低さの原因を日本の風土や日本人の特性に求める議論もあるが、国民とりわけ若者が政治に参加したり関心を持ったりしにくい制度や仕組みが張り巡らされていることは見落としてはならない。

 

第三に、安倍政権は選挙権年齢の引き下げを含む公職選挙法改正案を国会に提出したものの、若者の政治参加を自らの政治的目的達成の手段と考えており、国民の主体的な政治参加を真剣に考えてはいない。それどころか、安倍政権中枢は、若者が親生だより保守化していると判断し、有権者に占める若者の割合を増やすことで、日本国憲法改正における国民投票を有利に運ぼうと考えていた。こういった政治的意図が働いている中にあっては、主権者教育や政治的教養教育、そして政治に関与すること自体を避けさせてしまうのも仕方がないと言えるだろう。

 

ここまで見てきたように、選挙権年齢の引き下げを内容とする公職選挙法改正の裏では、若者の非制度的政治参加が活発化しないよう政治的活動を抑制しつつ、選挙や国民投票などの政治参加制度の枠内で政権の意向に沿って行動する国民を育成しようとする論者は決して少なくはないだろう。しかし、それだけでは現実は何も変わらない。政府を批判するだけではなく、自分自身をこの現実の一部を構成するものとして客体化、相対化し、事実を捉え直すことも必要であろう。生徒の学習の自由は国家による一面的知識や価値観の教え込みだけではなく、教師によるそれにも対抗しうる法益であり、教師の教育の自由は学習権保障の要請に従う限りにおいて擁護されるべきだと考える。

 

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