Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

言語学における「言語」と「方言」の違いについて

 

トピック

 

言語学における「言語」と「方言」の違いについて、具体例をあげて論じる。

 

私は言語学を専攻している訳ではなく、専門的な知識もないが、言語と方言の違いを問われると、言語はそれぞれの国で持たされたもの、一方で方言はそれぞれの国で持っているものという点で確かな違いがあると答えるだろう。まずは言語について考察していきたい。

 

世界では様々な国が異なる言語を持つ。セネガルコンゴ、アメリカとイギリス、ペルーとコロンビアのように異なる国で同じ言語を持つ国もあるが、基本的にはその国独自の言語がある。故に国籍の異なる人々の対話を可能にするため、世界では共通言語として英語が使用され、日本でも中国でもドイツでも国民は学生の内から英語を学ぶ。仮にもし世界中で同じ言語が使用されているとするならば、今日の世界はどのようなものになっていただろうか。国家の陰謀や政策なんかは他国に筒抜けになっていただろうし、サッカーの国際試合ではチームの作戦が相手チームに瞬時にバレてしまう。語学留学という概念も無かっただろう。だが歴史を見れば日本が朝鮮に対し日本語を学ばせたり、英国が植民地国に対し英語を強制させたり、どちらかと言えば、その国で生まれたものではなく、歴史の中である国から強制され持たざるをえなかったものだと考えることはできないだろうか。ブラジル人がポルトガル語を話すのは、彼らが自ら望んだ結果ではなく、植民地時代に、ポルトガルがブラジルを支配しやすくするために彼らに強制したものだろう。そう考えると言語は常に外部(ここでいう外部とは他国それも時代の強国を指す)とのパワーオブバランスの中で国民の意図ではなく、他国の目論みによりにより持たざるをえなかったもと考えるのと定義することができる。

 

一方で方言とは、一国の中で文法や構造は同じだが、発音やニュアンス、言い回しに違いのあるものである。例えばインドでは第一言語としてヒンディー語があるのだが、インド国内では多数の方言が使用され、それぞれの方言にかなりの違いがあるため、例えば北の人間と南の人間同士で会話が成立しないということも現実に起こっている。そのためインドではすべての国民の対話を可能にするため、英語が共通言語として使用されるに至り、インド国内では英語が急速に広がりつつある。言語が国と国との力関係の産物として生まれたことに対し、方言はその国の中のある地域間の力関係の産物として生まれたものであると私は定義する。実際、現在南スーダンで起こっている紛争は国家間のものではなく地域紛争に近いものがあり、日本の歴史を見ても地域ごとで様々な衝突が見られた。そのような力関係が結果として方言が生まれ、集合体を作っていったのではないだろうか。

 

以上のことから、「言語」と「方言」の間には明確な違いがあることがうかがえる。

 

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