Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

人の痛みを感じれる社会に

 

私が大学生の頃、ある教授から一人の男子学生を紹介された。その教授は東日本大震災が起こって以降、頻繁に東北へ足を運び、積極的にボランティア活動をしていた。その活動中に当時福島で大学生活を送っていた彼と知り合い、教授の勧めでうちの大学に編入してきたそうだ。

 

ある日、いつものように図書館に向かった私は、偶然に彼と鉢合わせた。腕に抱かれた「行政訴訟」の文字に目を落とすと、彼はゆっくりとうつむいた。「難しい本を読んでいますね」と言う私の問いかけに彼が答えてくれたおかげで、その日は勉強を中断し近くのカフェで数時間話した。

 

それからしばらくの月日が経ち、ある日大学の掲示板に掲載された原発集団訴訟に関するポスターを見た。そのポスターを見て、何のために彼が図書館に通っているのかがわかった。

 

全国に20ヶ所以上もある原発集団訴訟の中でも、千葉地裁では「ふるさとでの生活」が奪われたことを精神的苦痛の根拠にしている。そして去年、判決はこの国の責任を退け、東京電力の過失を「重大な過失はなかった」としながらも、賠償金の増額を認めた。これは、ふるさとを喪失したことが慰謝料の対象になることを認めたに等しい。

 

もちろん、当時の弁護団が言っていたように、国や東京電力の責任を矮小化する判決であり、その意味においては不当な判決であったと思う。だからその判決が出て彼に「よかったね」という言葉をかけることはできなかった。しかし、司法が「ふるさと喪失」を根拠としてその精神的苦痛があることを認めたことは小さくはないと思う。

 

我々は日々の報道に接する際に、結論部分である判決にしか興味を示さないが、その根の部分に多くの人たちの思いがある。そこに想像力を使い、ある一部に人の痛みを社会全体で感じられるようになるまでに、どれほどの過ちを正面から認める勇気を持たなければならないのだろうか。東日本大震災が国や東京電力につきつけた現実は途方もなく重い。

 

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