Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

大学生の現状: 放送大学で間に合うのか?

 

大学は放送大学で間に合うのだろうか?

 

昨日神戸で大学生が地域共生やインフラ、東京オリンピックで見込まれる経済的利益について発表するということで友人と見学に行ってきた。発表する大学生は世間では高学歴と称される大学生たちであった。実際に見学してみての率直な感想としては、無茶苦茶に低レベルで驚いた。そのような学生を観察していて一つの確信に辿り着いた。それは、日本の弱点は、個人がなくムラ社会だということだ。

各発表を終えると、参加した有識者が鋭い質問を学生に対し投げかけるのだが、学生はというと答えられる質問には饒舌に返答をするのだが、答えられない質問には、みんなが答えられない、そんな場面が多くみられた。 つまり、皆がわかっていないから、自分もわかっていなくても大丈夫、取り敢えず周りを見回して自分だけがおかしなことをしていなければ、何の危機感もない、ということである。知っている知識については皆で共有するからその類の質問が来ても即答で返事が出来る、だが、皆が知らないようなこと、質問されないだろうと思ったことに関しては蔑ろにする。学生がこうなったのは受験を産業化した日本の罪ではあるが、これは非常に深刻な問題であると感じた。

内田樹のエッセイに、神戸女学院大学で、ファッション雑誌の記事をコピーして学生に配布し、その中にある用語を質問したところ、ほとんどの学生が答えられない用語が多数あった、ということを書いていて「彼女たちにとって世の中は穴あきチーズのように見えているのではないか」と述べている。つまり、皆が分かっていないから、ファッション雑誌の用語が分かっていなくても、読めたことにしてしまう学生が大部分だということである。

再考してみると、このようなことは社会の至る所で観察できる。最も大きなところでは、「財政赤字で国家財政が破綻しそうだ」ということは皆で分かっているけれども、「取り敢えず、今のところは大丈夫なんだから、気にすることはないんじゃないか」という根拠のない楽観が支配的だ。つまり、皆が騒がないと何も変わらない、何か変なことが起きてから騒ぎ出すという体質なのである。東芝粉飾決算問題も、「赤信号、皆で渡れば怖くない」みたいな心理が大きく働いて起きたことだと思う。もう引き返さなくなっても問題は表面化せず、ギリギリまで隠蔽されてしまう。

このようなことを踏まえて、「大学は放送大学で間に合うか」ということを考えてみると、大半の学生は放送大学では事足りないという結論に至ってしまう。それは前述したように「皆がわかっていないから自分も知らなくてよい」ということが習慣になっている学生が多いということもあるが、それ以前に、学生の中には自分が分かっていないことを理解していない学生も多いのだ。

先月、大学生の数学の問題を解説している際「コーシーの積分定理を説明して」と訊ねると答えられるのに、「じゃあこの複素線積分はどういう意味なの?」、「じゃあ、この関数zをこの線分上で積分するとどうなるの?」と質問をすると学生は途端に沈没してしまった。

学生はそのくらい理解が浅いのだ。キーワードと例文の暗唱が理解の全てという学生がものすごく多くて、こういう人たちを手直しせずに社会へ送り出すのは極めて危険だと感じる。そのような学生を修正するために大学という機関があり、教授がいて、答え合わせをする場としてのゼミがあるのだ。この3つの条件が放送大学で十分に満たされているかというと、満たされていないと思うのだ。

従って、今の日本の学生の教養レベルや思考の習慣といった観点から結論づけると、現状では、放送大学では十分ではないということになる。

 

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