Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

自己責任論

凄惨極まる津久井やまゆり園事件から一年が経った。障がいのある身内を持つ人間として、あるいはこの国で暮らす一人の人間として、心が痛む。思えばこの事件について、有名無名を問わず、様々な人たちが様々な発言をしているのを耳にした。事件の直後、自民党山東参院副議長が「犯罪者を監視するために全地球側位システムを利用するなど、きちんとした法律を取っておくべきではないか」と発言し、注目を集めた。犯人のことは絶対に許せないが、公権力の権限を大幅に拡大させて人権を矮小化する意見に賛成することは到底できない。大多数の市民の恐怖と犯罪者の人権を天秤に掛けて、釣り合うはずもない二択を迫るやり方は、「テロ対策」とされる共謀罪に見られる。しかし共謀罪があればテロは防げるのか。全地球側位システムがあれば津久井やまゆり園事件は起きなかったのか。本質から乖離した、嘆かわしい議論である。さすがに著名人の発言ではないが、周囲では「施設に預けるのがよくない」という暴論も聞こえた。障がい者を身内に抱える人たちの痛いところを無神経についてきたな、という印象だ。

それぞれの家庭が、少しずつ施設へ預けることへの躊躇いを抱えている。重障がい者となれば、家族が二十四時間一緒にいることはほぼ不可能だ。家族は社会生活を送れなくなってしまう。しかし自分と血の繋がった者のことを思えば、愛情もあるし、かといって永劫この生活はきついと考え、その薄情な感情を持つ自身に苛立って毎日を過ごしている。要するに、家族は皆、外野から指摘されるよりもずっと前に、施設へ預けることへの罪悪感を抱えているのだ。だからこそ、あらゆる施設を回り、少しでも努力をさせてほしいと願う。戦後最大規模の死者を出しながら、メディアでの扱いがそれを感じさせないのは、被害者の家庭がそもそも複雑だからである。

この種の自己責任論は、基本的に家族単位で何とかせよという無言の圧力が根底にある。「心配ならなぜ他人に預けるのですか?」といった爆論も聞こえた。家族の内々で処理し、絶対に汚物を社会に垂れ流すなという冷たい響きを持った言葉だ。政府はますます家族の温かさを強調し、理想を刷り込むが、絆という言葉の裏に縫い付けられた弱者切り捨ての不条理を感じずにはいられない。

津久井やまゆり園事件を知ったとき、多くの人々が「許せない」「可哀想」と感じるのは良い。しかし無責任に放った意見が、ある立場にいる人を傷つけ、孤独にさせてしまうことを知ってほしい。f:id:Nextepisode:20170917135702j:image