Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

A small historical city, Burgaria

We woke up in Sofia, Bulgaria and attempted to go to the bus station. At first, We could not find the tram station, then we got on a tram going in the wrong direction. Haplessly We had to walk roughyly 500m and finally got to the bus stop. Sofia- Veliko Tarnovo, 19 Lev per head, equivalent approximately 1300 in a Japanese currency. 

 

 We finally had in Veliko Tarnovo. We dropped our bags off and went straight out for shopping. Veliko Tarnovo is a little city in north central Burgaria. It is one of Burgarians oldest settlements, was the capital of the Second Burgaria Empire and is located on the Yantra River.

 

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The first thing that comes to mind is Tsarevets. It is a fortress which was in use when Veliko Tarnovo was the Burgarian capital, and is built on one of the three hills of the city.

 

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Basically, We didn’t hold back at all in terms of spending money, but we stayed at a relatively cheap hostel at that night and this was where We met the cool guy who inspired us. In addition, the fact that the Burgarian people are extremely warm and welcoming towards foreigners just increases its attractiveness as best value destination. Everywhere we went we found it so remarkably easy to strike up a conversation with locals not only because gonca  is fluent in Turkish and I have a broken Turkish but also because they are simply warm, whether it  as the waitress at th restaurant, a taxi driver, the staff inside of a shop or strangers we encountered while wandering the streets.

 

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We only had three days to visit the entire city of Veliko Tarnovo and it was enough to complete the city. We tried to visit the most important touristic attractions but ended up spending more time in playing soccer against school kids. Regarding important places, there are a few to mention, but I believe the city itself is a lovely place to just get ourself lost in.

 

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Although I am not familiar with its history, Tsaravets Fortress is the most important touristic attraction from Veliko Tarnovo. There is a little bit of climbing and I wouldn’t suggest going on a very hot day. On top, there is the patriarchal cathedral, a small church with colorful paintings and it also features a tower that you can visit and I bet it has a nice view. We weren’t that lucky, it was closed that day.

 

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Overall, I liked this place a lot, and I know I would have like it a whole lot better if I had gone in the summer when a bunch of foreigners pay a visit.

 

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学びの機会は皆に与えられている

 

ロンブーの淳氏による青学受験が幕を下ろした。結果は不運にも合格とはならなかったが、彼が真摯に受験に挑み、それに向けて多忙な中勉強に励む様子はメディアを通して十分に我々に伝わった。「受験は闘い」、結果に笑う者あれば、泣く者もある。けれども、人によっては結果以上に大切なことが学べる、それが受験の醍醐味でもある。

 

それにも関わらず、淳氏が受験を志してから結果が出た今でもまだ、彼に対するネガティブな発言が世間から聞こえてくる。「単なるテレビの企画なのだろう」、「真剣な受験ならメディアを通さずにやれ」、合否が発表された後も、「本当に学びたいのなら他大学も受けていたはずだ」、「もちろん来年も受けるのだろう?」等の辛辣な意見である。

 

淳氏が昨晩ツイッターに載せた主な志願理由を読むと、彼はこれまで勉強をしてこなかったことで、大人になった今、勉強したいという欲が出てきたそうだ。法学部を受験したのは、自らの社会経験からテレビ業界での「規制」の曖昧さに気付き、それを看過できないという思いと、改善していくためには業界の事情に通暁していなくてはならないと思い始めたのがきっかけだそうだ。青学を目指した理由は、単に大学に憧れていただけでなく、同学学部で教鞭をとる住吉教授のゼミで学びたいと感じたからだという。

 

言うまでもなく、多くの人間が大学に進学する時代になった。だが、彼のように、明確な目標と学びたい特定の分野が事前に定まった上で大学へと進学する者はいったいどれほどいるのだろうか。多くの人たちが、自分が何を学びたくて、学んだ事をどう今後に生かしていきたいのか、それさえ曖昧に大学に進学していることだろう。そのような学生たちと、淳氏のような人たち、どちらが本当に大学で学びを得るべきであるのか。

 

100日間でほとんど0の状態から青学を受験して合格することは砂上の楼閣だったのかもしれない。だが、本当に学びたい人間がその立場や環境が理由で学ぶことを許されないのであれば、それはなんとも牽強付会なことである。

 

人によって学ぶべきことも学ぶべき時期も期間も相手も異なる。学びたいと思う人間が自由に学べる場所として大学があってほしい。そして大学へと進むチャンスは皆が平等に与えられている。

 

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アフリカにおける飢餓の内実

 

アフリカにおける食料不足と飢餓の問題について書いていきたい。といっても、アフリカが地球上で最後の未拓の地と称され、多くの人々が飢餓と貧困の下で糊口をしのいでいることはすでに皆が周知している。従って、本稿では一般的な見解から別の切り口でアフリカの飢餓問題を考えていくことにする。

 

アフリカにおける食糧不足の原因として一般的に第一に挙げられるのは人口増加率の高さである。他方、土地には限界があるので、食糧生産が人口増加に追いつかないというマルサス以来繰り返されてきた議論である。しかし、確かにアフリカの人口増加率は高いが、負けず劣らず中東や南米の国々における人口増加率も高い。土地については、人口一人当たり耕地面積はアフリカは中南米よりも小さいが、アジアに比べると2倍弱大きい。しかも、相当年数の休閑期間を伴う焼畑耕作の面積が少なくとも過半を占めるから、耕作可能面積は現在の耕地面積の2倍を超える。従って、アフリカの食糧不足の原因を単純に人口と土地の関係に求めるわけにはいかないのである。

 

第二の理由として、アフリカ諸国が工業ないし都市重視の政策をとり、農業を軽視してきたことが挙げられる。しかし、これもアフリカに限られたことではない。経済発展を目指す開発途上国が工業化を指向するのは当然であり、現在の先進国がかつて辿り、開発途上国が現に辿りつつある道でもある。その場合に、必要な原資を唯一の産業である農業に求めざるを得ないのも歴史が示すところである。実際には、工業化よりも、道路、電気、通信等のインフラストラクチュアの設備や、教育、衛生等に多くの資金が投入されてきたのであるが、それは国民の生活水準向上のためにはもちろん、農業の発達のためにも要請されるものであった。また、これらの投資の相当部分は援助によってまかなわれていることも考慮に入れる必要がある。

 

第三に、農業においては、輸出農産物が重視されて食糧生産が軽視されてきたことが考えられている。しかし、実際には、農民は輸出農産物と食糧生産の経済的有利性を比較したうえで輸出農産物の生産を行っている。国民経済の立場からしても、ココアやコーヒー等の輸出によって、国内で生産した場合以上の食糧を輸入できるとすれば、それは合理的な選択だと言える。さらに、工業化を図るための機械や原材料はさし当り輸入によって調達する以外に方法がないのであるから、輸出農産物の生産を進めるのは、やむを得ない選択でもあった。先進国の経済発展の歴史も同様の過程を辿っているのである。また、輸出農産物生産による現金収入によって農機具や肥料の購入が可能となり、それが食糧生産に寄与したことも見落としてはならない。

 

第四に、人口増加によって土地利用が強化され、砂漠化等環境破壊が生じたことが挙げられる。しかし、砂漠化がどの地域でどの程度進行しているのか、それは人為的理由によるものなのか、気象条件の変化によるものなのか等の問題は、必ずしも十分に理解されていないように思われる。統計で見る限り、各国の耕地面積と単収が増加している事実も存在するのである。

 

それでは問題はどこにあるのであろうか。それを考えるに当たっては、アフリカにおける食料不足は、実は増大する人口一般にとってではなく、増大する都市人口にとっての不足であることに注目する必要がある。アフリカの人口は近年急増している。その内訳のほとんどが都市人口での急増なのだ。ナイジェリアのラゴスエチオピアアディスアベバナミビアウィントフックセネガルダカールなど、今日でも多くの人々が都市へと移住をしている。

 

マクロとして捉えると、アフリカの食糧生産はほぼ農民人口の増加率並みの伸びを示し、農村部における食糧を自給したうえで若干の余剰を生み出し続けた。しかし、増大する都市人口の需要を満たすことはできず、都市人口はますます輸入依存度を高め、その食糧の大半を輸入に依存するにいたったのである。

 

農民が都市向けの食糧生産を増大させ得なかったのは、輸入食糧が相対的に安い価格で供給され、商品生産としての食糧生産が採算に合わなかったためである。輸入食糧は都市住民にとっては安い食糧であったが、農村住民にとっては国内輸送経費等が加算されて高いものになるから、それに依存するよりは自給する方が一般に有利である。そこで、自給のための食糧生産は続けることになるが、その生産方法は基本的に伝統的農法の域を出ることができなかった。その意味で、アフリカの食糧不足は、伝統的農法の下における食糧生産力の停滞からくる都市人口の食糧問題にほかならないのである。

 

これに対して、飢餓とは主として農村人口にとっての問題である。また、食糧不足がいわば恒常的な問題であるのに対して、飢餓は不定的、かつ、しばし局所的に生ずる問題である。食糧生産が自給自足段階にある状況のもとでは、異常気象によって不作が2年も続けば飢餓の発生は避けられない。イギリスでは、西暦10年から1850年までの約180年間に187回の飢餓があったといわれ、インドでは297年から1947年までの間に、70回の飢餓があったといわれる。

 

現在アフリカ諸国の農民は想像以上に諸品経済に巻き込まれているが、基本的に自家消費の余剰を販売する段階にとどまる農民の得る現金収入は生活必需品を賄う程度のものであり、貯蓄も乏しい。不作で食糧の貯えが底をつくと高騰する食料を購入することはできず、飢餓に結びつくことになりやすい。さらに、アフリカでは情報通信網が不備で、事態の迅速な把握が困難である。道路事情の悪さ、輸送手段の欠如等から、そこへの支援物資が円滑に届かない。そのため、首都には食糧が十分にあっても、特定の地域で飢餓が発生するといった事態が生ずる。一般に飢餓は、首都等の都市や、輸出農産物の生産地帯では生じない。都市人口は食糧の大半を輸入でまかなっているので、国内の不作の影響を直接受けることが少なく、また必要があれば政府は補助金付きで安く放出する。輸出農産物生産地帯は所得水準が相対的に高く、食糧の購入が一般に可能である。こうして飢餓は、むしろ食糧生産地帯に局所的に生ずることになる。

 

アフリカの食糧問題解決のためには、迂遠のようだが何より道路、次いで通信等のインフラストラクチュアの設備が必要と思われる。それは、肥料等の生産資材や食糧をはじめとする生産物の流通コストを引き下げることにより、間接的に食糧生産の増大に寄与するであろう。価格・流通政策については、安い輸入食糧や支援が現状では必要であることは事実ではあるが、その都市人口への供給にあたっては国内生産者価格への悪影響を極力少なくする必要があろう。都市に貧しい住民が存在するのは事実であるが、都市と農村の間にアジア地域以上に所得格差が存在することが指摘されている事実もある。政府機関の買い上げについては、農民への所得保証、都市住民への供給確保、証人による不当利得の排除等を目的としているが、その非効率性から所期の目的を達成できない国が多い。それらの国では、道路、通信網の設備を急ぐとともに民間流通をより積極的に進めることが目的接合的であろう。農業生産面においては、まず優良品種の選抜に始まる品種改良、灌漑地の拡大、有畜農業化等が必要であろう。このうち灌漑については大規模感慨の失敗事例が多いので、農民が施設の維持、管理が比較的容易に行える中小規模のものが望ましいであろう。

 

その他多くの対策が考えられようが、現在のアフリカのほとんどの国は、累積債務、財政や貿易収支の赤字等で経済的危機の状況下にあり、実施が困難なものが多い。今後支援の拡大が図られたとしても、食糧問題の解決には長期間を要すると言わざるを得ないであろう。

 

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日本国憲法が保障したものの大きさ

 

私の祖父は77歳になった。ちょうど幼少期に戦後を迎えた祖父は、言ってしまえば「日本国憲法と同世代」ということになる。思想・良心の自由を掲げる憲法のもとで、様々に表現されたものを見たり、あるいは自分で創作して発表する機会を得てきた世代だ。「長く共にいると空気のようになる」とはうまい喩えだと思う。人間にとって大切なはずの空気にも、特段感謝をしなくなるのだ。

 

制定から70年以上が経過した憲法も、今や「空気」になった感が拭えない、と祖父が言った。

 

祖父の父であり私の大祖父にあたる人は祖父が子供の頃、小さな出版社を営んでいたそうだ。しかし、治安維持法の毒牙に幾度も経営を阻害されたそうだ。だがその分、大祖父は表現することの意義深さを肌で感じた人でもあったという。「自粛しなければという雰囲気があるときこそ、しっかり自分で何を世の中に問いたいか考えなければいけない」。いつもそう言っていたそうだ。大戦から長い年月が経ったこの局面で、この言葉はことさらに重要になってきたように思う。与えられて当然の、空気のように考えられてきたあらゆる自由が、その濃度を希薄にしつつある。

 

科学技術の力で国民全体に広く縄を掛け、捜査機関が恣意的に対象を「犯罪者」に仕立てることができる危険な共謀罪が成立してしまった。表向きはテロ対策であり、国民から危険を遠ざけるためであるが、何を危険とするかは警察当局が決められる。科学技術が発達した分、監視された場合にプライバシーすべてを丸裸にされることは確実になった。多くの国民は「犯罪者に適用するのだから自分には関係ない」と考え、捜査の刃が自分の日常生活に向くとは思いもしない。

 

大祖父も何度か出頭させられたそうだ。そのたび、周囲の人々が少しずつ距離を置いていった。無辜の市民からすれば、連行されていく大祖父が本当に罪を犯したのかというよりも、警察から犯人と目されている人とは関わりたくなかったのだろう。数の力で法案を押し切れば、民主主義的な議論を否定することになりかねず、民主主義が崩壊していくはずだ。そしてまだ、十分に処罰対象とする犯罪も絞りきれていない。

 

驚くべきことに、GPS捜査が違法であると判断を下した最高裁に対し「裁判所は現場のことが何もわかっていない」と愚痴をこぼした捜査関係者の幹部がいたそうだ。星を上げるためなら人権侵害もやむなしと考える現場は、共謀罪が成立したことにより、捜査の権限は無限に広がってしまった。個人の表現が制限されない社会を作るのは、世論であってほしい。日本国憲法が保障したものの大きさを今更ながら、感じる。

 

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情報社会に生きるということ

 

仕事終わりの電車の中、何やら三人組の男子高生が話している声が聞こえてきた。「翁長さんの発言は支持できないね。実際のところ沖縄の人たちは米軍基地があって生活が成り立っているのだから」。私は「高校生でも政治についてしっかり考えているんだ」と関心したが、すぐに話題はドラマの話に移ってしまった。そして少し経つと話はオリンピックの話題に飛んだ。どうやら、政治やスポーツ、芸能などあらゆる分野を網羅できるサイトをスマホで見ているようだ。きっとその中の一人が見ている画面にたまたま翁長知事が画面に映し出されたのだろう。

 

若者は溢れる情報の海を泳いでいると言われるが、わたしは、水切り遊びに近いと思っている。ちょうど、川の水面をうまく瞬発力で石が渡っていくようなイメージだ。若者に手渡される情報は確かに多いが、瞬時かつ無意識に「要る」「要らない」を選別するのが日常になっている。彼らは翁長知事を「政府に楯突いているおじさん」というカテゴリーに入れて、それ以上は深く知ろうとしないし、誰も彼らに教えようともしなかったのではないか。だとすれば、ただ何となく「自分とは違う人」という印象だけがおぼろげに残ることになる。

 

翁長知事は、三代続く保守派の政治家の生まれである。彼は沖縄県自民党に身を置き、県議時代には辺野古基地移設推進の旗を振った。その当時について、国との交渉の中で、苦渋の選択であった2012年11月の朝日新聞のインタビューで答えている。

 

一見矛盾した行動も、奥深い政治の世界に翻弄されつつ信念を曲げないための処世術だったとみるべきだろう。まして、ネットニュースや新聞の小見出しだけを撫でるように見ただけで、世の中がわかるはずもない。また、ちょうど1年ほど前、高江ヘリパット建設に反対する市民に対し「土人」と暴言を吐いた機動隊がいたことが問題とされた。しかし概ねどのメディアも主語を「機動隊員が」としてあり、釈然としなかったことを覚えている。暴言を吐いた主体は、個人などではなく、国家権力であるとなぜ明示しなかったのか。

 

権力の中に、「沖縄で政府のやり方に異を唱える人間は自分たちとは違う」という根強い差別意識があり、それを誰も正そうとしないから、まだ20代の機動隊員の口からあのような差別的な言葉が出てくるのである。たまたまあの隊員が発言をしただけのことで、根本的な差別意識を共有している権力の存在が背後にあることを忘れてはならない。しかしそのような事件も、そこから得た教訓も、ただ情報が右から左に流れていくだけの世の中では「それを知っている」と瞬発的に判断したらそれ以上の何も人々は知ろうとしない。まして本土の人たちは、一度「関係ない」と思ったものを切り捨てて、自らの忙しい日常へ帰っていく。

 

そんな人々が「中央」と呼ばれ政治を動かすとすれば、マイノリティーが人並みに尊重されることなど、どうしてあり得ようか。

 

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表現者は自粛し、周囲は萎縮する

 

「これから配布する文章は世界で最も素晴らしいものだから、ぜひ知ってもらいたい」と担任の教師は目の前の生徒達に伝えた。これは今から50年ほど前、私の父が小学生だった頃の話である。先生は笑顔で、まるで面白いアニメや漫画を見るかのように、手書きのプリントを生徒たちに配った。

 

教育勅語」。私たちがどうあるべきかの道しるべだという。期待感があっただけにクラスの中には「なぁんだ」と露骨にげんなりする子もいた。最初は皆で音読をしましょう、それから立って大きな声で言いましょう、最後には見ないで言えるようにしましょう、担任の要求は増えていった。

 

一過性の教材で終わるかと思われた教育勅語は、とうとう前に出て暗唱するまで帰さないという強制力を帯びた。数週間で、何人もの生徒が見ないでスラスラ言えるようになった。誰しも書かれた文章に感動していたわけではない。単純に居残らされるのが嫌で、理不尽な教育と戦うよりも適応する道を選んだのだ。私の父も、違和感を感じながら、不自由さに吐き気がしながらも、身体は教育勅語を受け入れていった。

 

私の父が私が高校生の時に、東南アジア•中東•ヨーロッパへの放浪を許したのは「自ら選び取る」ことを提示したかったからだと言っていた。何を学び、何を深め、どう学ぶのか、それらは本来、他人から、ましては国家から押し付けられるものではないはずだと。

 

去年「教育勅語」という言葉が広く知れ渡り、運動会で日本を賛美する園児の動画が拡散した。それに関して安倍首相は「憲法教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」という答弁書閣議決定した。国民主権を否定しかねないものが、どうして憲法に反しないと言えるのだろう。父親の学生時代の嫌なニオイが露骨に漂う。

 

権力は常に「強制なんてしません」という顔をしてやってきて、息苦しい時代をあっという間に作る。父親の担任が教育勅語を配布した時と全く同じだ。いつの間にか判断能力を失う理不尽な状況を仕組み、そこから逃れたい人たちを従わせる。誰しも、個々は悪い人たちではないのに、一旦歯車となってしまったら間違った方向へ進む国家を止められない。

 

沖縄では「反基地」の運動をする人たち、東北では「反原発」を掲げる人たちが不当な扱いを受けている。表現者は自粛し、周囲は萎縮する不気味な時代になった。当たり障りのない行動が権力に最も喜ばれることを、皆が覚えている。

 

きな臭い時代になった、と嘆かわしい気持ちで私は空を見上げた。

 

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子どもを最優先に考えた離婚


春の訪れを待ちわびながらちょうど去年の今頃、私は「夫婦断絶防止法」に関する講演会に参加した。この法案は、「離婚等の後も子が父母と親子としての継続的な関係を持ち、その愛情を受けることが、子の健全な成長及び人格の形成のために重要である」という理念のもと、「連れ去りを防ぐ法制の検討が必要」との見解から国会に提出され、今日に至るまで可決されていないものの、遅かれ早かれ可決される可能性が十分にある法案である。

この法案をめぐる講演会に参加した時、「温かい家庭こそ善」という同調圧力を感じずにはいられなかった。もちろん、家庭が温かい場所でなら素晴らしい。しかし問題は、その家庭が安らぎの場所ではない人が少なからずいるにもかかわらず、社会のどこかに彼らの居場所を作ろうと政治家が積極的にならず、「家庭の中で解決してください」とでも言わんばかりの態度であるということだ。

離婚は、言うまでもなく途方もない苦労を伴う。誰が好き好んで戸籍にバツを背負うだろう。参加者の一人が壇上で「私が離婚をした理由は、相手がギャンブル依存に陥り、DVによって生命の危険を感じたことにあります。まだ四歳だった娘とともに命かながら逃げてきた行為を”連れ去り”だったと言われてしまえば、私はこの法案によってどんな人間になってしまうのでしょうか」。

もちろん彼女は衝動的に離婚に踏み切ったわけではない。様々な機関へ通い、生活改善を試み、相手の両親とも話し合いの機会を持った。多くの離婚経験者がそうであるように、彼女の場合も、そこに至るまでに長い時間と深い苦悩があった。当然、”子どもの将来を最優先に考えた”。

そもそも、多くの場合親権者にならない父親を想定した面会交流の保障をむやみに行うだけで、、親子の断絶が防止できると考えるのも短格的である。講演会で聴いた話の中で最も驚いたのが、オーストラリアでは10年も前に親子断絶防止法が制定されていたことだ。だが「面会交流を行うほど良い」との理念があり、交流を重ねれば重ねるほど、非同居親が支払う教育費は減額される仕組みだという。さらに09年には、子どもとの面会交流中に父親から四歳の子どもが橋の下に落とされる事件が起き、DV夫の暴力癖と法制度によって幼い生命が消えた。

いたずらに親子を引き合わせることは、「幸せ家族」の保全にしかなりえない。人はそれぞれに事情を抱えて生きる。その個別的な事情に配慮を巡らせない法案が通れば、オーストラリアの失敗を繰り返すことになりかねない。蛇足ながら、この法案は、DVなどの実力行使になった際に必ず被害者になる女性の視点が少ないように思われる。

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