Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

学校について思うこと

 

ここ最近なってアクティブラーニングという言葉を聞く機会が増えた。アクティブラーニング(Active learning)とは文字どおり、アクティブに学ぶ、言い換えれば学習者である生徒が受動的となってしまう授業を行うのではなく、能動的に学ぶことができるような授業を行う学習方法である。先日、とある大学教員と話をしていて、その教員はアクティブラーニングの話題に移った際「やっと生きた学びが得られるようになる」と口にした。

 

東京オリンピックパラリンピックを睨んだ2030年から、新しい学習指導要領が実施されることになった。答申は希望に溢れ、特に学校と社会の密接なつながりを強調した。「世の中と結びついた授業等を展開していけるように」という文言が印象的である。

 

学校は世の中から乖離した空間だとの批判が、頻繁になされる。その指摘するところは正しいとしても、それこそが学校のあるべき姿ではないかと思う。世俗にまみれた価値観で行うものが、教育だとは到底思えない。公教育の真価は、どんな家庭に生まれた子どもも等しく教育の機会を与えられるところにある。いずれ社会に羽ばたく子どもたちに、生きる上で持つべき規範意識や倫理観を教えることが、ひいては日本の将来を支えることになるのではないか。

 

今この国、いや世界を覆う、金銭を稼ぐことだけが偉くて、学校での学びは「何の役にも立たない」とする冷笑的な雰囲気はどこから来るのか。誰もが知る一流企業の幹部は官僚と手を組み、他国に原発を輸出し、あるいは武器を売ることで、自分たちの会社だけは景気を上向きにしようと必死になっている。戦争で二度も原爆を浴び、甚大な原発事故を起こした国で生きてきたエリートとは思えない判断である。

 

日本の朝鮮学校で学んでいた私の母は、十分な教育を得たとは言えないのかもしれないが、そんな母が「教育というのは、その子が自分一人で良いことと悪いことを判断できる力を身につけさせることだよ」と私に言い聞かせていたことを思い出した。あの時は、そんな当たり前のことを身につけるために何年も学校で勉強させられるのか、と嫌気がさしていた。けれども、この歳になって母が言っていた言葉の意味が理解できる。

 

一昨年に出た学習指導要領の答申には、人工知能など未来的な視座には見えるが、今まさに問題とされている子どもの貧困や教員の過剰労働については、問題の大きさに比べて扱いが小さかった。教育は未来への投資である。教員の就業時間の全ては、いつか子どもが大人になったとき、その将来を握るハンドルを間違えないようにするための労力に他ならない。新しい学習指導要領が、学校の社会への貢献を期待するのではなく、子どもの将来への惜しみない支援を約束するのであればいいと心から願う。

 

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