Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

経済成長しか考えれない悲しき経済大国

 

カジノ法が賛成多数で可決されてからしばらくが経った。経済学者の多くはカジノを含めた統合型リゾートの建設に前向きで、そこから得る多大な経済効果に希望を抱いているようだ。一方で、外国人観光客を呼び込むための成長戦略だとする自民党の暴走に非難の声も上がっている。

 

野党は原案にギャンブル依存症対策の条項を盛り込むことで採決を容認し、民進党のとある議員は「よくこんなでかい二つを盛り込んでくれた」とコメントを発表し自民党を評価していたが、もうちょっと客観的に考察できないものかと私は思った。

 

この議論の中心は、人を依存状態に陥らせ、判断能力を無力化してしまう劇薬によってしか経済的な成長を描けない国になっても良いのか、ということではないか。それなのに、国会全体が「依存者が出ても何らかの対応をすれば良い」と考えていること自体、日本の運営を放棄しているようにしか思えない。

 

そもそも日本はすでに、人口の5%がギャンブル依存状態だと言われている。巷にはパチンコ、スロット、競馬などのギャンブルの広告が溢れ、明るくて楽しいイメージが演出されているその裏側で、何百万人もの患者とその家族が泣いているのである。

 

読者の周りにもギャンブル依存状態の人がいると思う。優しくオブラートに語られることが多い彼らだが、明明白白、一つの病気だと思う。皆、自分が依存状態になるなんて予想もしていなかっただろう。人が心惹かれるものに感動する時の感覚を知ったとき、初めは純粋にギャンブルを楽しんでいたのであろう。社会に用意された落とし穴が放置されていることの問題を感じざるをえない。

 

いつからか、社会は落とし穴へ落ちていった人に対して「自己責任」を言い立てて、見捨てるようになった。落ちた人は、恥ずかしさで声をあげられなくなった。それは本当に人に優しい社会だと言えるのだろうか。誰かが依存症になることが予定され、放置されていて、その対策を法律に盛り込んでまでカジノを設定しようとする社会が優しいとは到底思えない。

 

「カジノ解禁に合わせて包括的な依存症対策を行う機関を創設し、カジノの税収から対策費を捻出すればいい」。IR議連の上層部の役員の言葉である。

 

人の人生を何だと思っているのか。鋭い刃物のような言葉が深く胸に刺さる。

 

経済の論理だけで大きく風呂敷を広げ、それに対して誰も本当の意味での責任を取らない社会の体質だけが、この国では浮き彫りになっている。

 

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