Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

表現者は自粛し、周囲は萎縮する

 

「これから配布する文章は世界で最も素晴らしいものだから、ぜひ知ってもらいたい」と担任の教師は目の前の生徒達に伝えた。これは今から50年ほど前、私の父が小学生だった頃の話である。先生は笑顔で、まるで面白いアニメや漫画を見るかのように、手書きのプリントを生徒たちに配った。

 

教育勅語」。私たちがどうあるべきかの道しるべだという。期待感があっただけにクラスの中には「なぁんだ」と露骨にげんなりする子もいた。最初は皆で音読をしましょう、それから立って大きな声で言いましょう、最後には見ないで言えるようにしましょう、担任の要求は増えていった。

 

一過性の教材で終わるかと思われた教育勅語は、とうとう前に出て暗唱するまで帰さないという強制力を帯びた。数週間で、何人もの生徒が見ないでスラスラ言えるようになった。誰しも書かれた文章に感動していたわけではない。単純に居残らされるのが嫌で、理不尽な教育と戦うよりも適応する道を選んだのだ。私の父も、違和感を感じながら、不自由さに吐き気がしながらも、身体は教育勅語を受け入れていった。

 

私の父が私が高校生の時に、東南アジア•中東•ヨーロッパへの放浪を許したのは「自ら選び取る」ことを提示したかったからだと言っていた。何を学び、何を深め、どう学ぶのか、それらは本来、他人から、ましては国家から押し付けられるものではないはずだと。

 

去年「教育勅語」という言葉が広く知れ渡り、運動会で日本を賛美する園児の動画が拡散した。それに関して安倍首相は「憲法教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」という答弁書閣議決定した。国民主権を否定しかねないものが、どうして憲法に反しないと言えるのだろう。父親の学生時代の嫌なニオイが露骨に漂う。

 

権力は常に「強制なんてしません」という顔をしてやってきて、息苦しい時代をあっという間に作る。父親の担任が教育勅語を配布した時と全く同じだ。いつの間にか判断能力を失う理不尽な状況を仕組み、そこから逃れたい人たちを従わせる。誰しも、個々は悪い人たちではないのに、一旦歯車となってしまったら間違った方向へ進む国家を止められない。

 

沖縄では「反基地」の運動をする人たち、東北では「反原発」を掲げる人たちが不当な扱いを受けている。表現者は自粛し、周囲は萎縮する不気味な時代になった。当たり障りのない行動が権力に最も喜ばれることを、皆が覚えている。

 

きな臭い時代になった、と嘆かわしい気持ちで私は空を見上げた。

 

f:id:Nextepisode:20180217125204j:image