Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

こうしてテロリストが形成された

 

2015年11月13日、UNESCO総会へ参加するために滞在していたパリのホテルに「パリ市内で大規模なテロが起きた」という知らせが入った。部屋に戻りパソコンを開くと、家族や友人、大学の教員から連絡が入っており、生存確認の連絡を返した。その後、パリ市内に住む友人と連絡を取り合い、テレビとネットのニュースを追いかけた。爆破が起きたバーから3キロほどの場所にホテルがあり、救急車やパトカーがテロ発生地の方向に何台もひっきりなしに走っていく様子を窓から見ていた。ちょうど翌日に日本へ帰る便を予約していたのだが、一刻も早くこの国から離れなければならないと確信した。しかし、ホテルの外に出るほうが危険だと考えた私は、予定通り翌日の便で日本へ帰ることにした。テレビでは多くの人が空港に押し寄せる様子が報じられ、その日は眠れぬ夜を過ごした。

 

翌日、飛行機が遅延し、多くの人がパリから離れるため空港を利用することがわかっていたので、いつもより早く空港へ向かうことにした。空港までは少し距離があったが、身の安全を第一に考えタクシーを利用した。空港へ着くと予想していた通り多くの人たちで溢れかえっていた。緊張した状況の中で日常をなんとか保たせようとしている人、身内がテロに巻き込まれたのか大声で咽び泣く女性、一刻も早くこの国から離れたいと焦る観光客、初めての光景に私は動画を撮った。結局、飛行機が飛び立ったのは定刻を4時間も過ぎてからであった。

 

 

パリ同時多発テロは死者130名、500名弱の負傷者を出す大惨事となり、政府は直ちに非常事態を宣言した。テロの翌日、ISILは、ファビアン・クランの声で犯行声明を出し「今回の攻撃は嵐の始まりに過ぎない」と警告した(その後、ベルギーやドイツでテロが起きた)。本稿では、フランスが直面しているテロの脅威が、時間をかけてどのように形成されたかについて触れようと思う。

 

もともとフランスは「テロリズム」の発祥の地でもあるが、現在のイスラム過激派による活動・攻撃が活発化してきたのは1990年代、旧植民地アルジェリアにおける過酷な内戦の影響があり、母国での弾圧を逃れてきたイスラム主義者の中でも暴力的過激主義に傾倒していた武装イスラム集団(GIA)がフランスや欧州に構築したネットワークが基盤になったことが指摘されている。いわゆる「第一世代」によるテロの頂点は1995年のパリ地下鉄爆破事件であった。その後、主謀者らは拘束され、ネットワークの大半はフランス当局により潰された。また2001年の米国同時多発テロの発生を受けた取り締まり強化により、仏及び欧州のネットワークは弱体化していった。

 

しかし、これらの構成員のノウハウは、2003年のアメリカのイラク侵攻を契機に誕生したジハーディスト供給網へと引き継がれていった。それは、すでに収監されてきた第一世と、イラク渡航後に収監された第二世が獄中で知り合うことでも受け継がれ、例えば、パリ19区網に属し、シャルリー・エブド襲撃の実行犯であるクアシや、ユダヤ店舗等を襲撃したアメディ・クリバリは、獄中で第一世代のGIA戦闘員ベガルの影響を受けたとされている。他にも、パリ19区網と関わりがあり、ISILで要職を占めると考えられているサリーム・ベンガレム、また現在多くの構成員がシリアに渡航しているアルティガット網のエシッドやメラー等は、いずれも強盗等の犯罪で収監され、獄中で過激化した例として知られている。彼らは当局の監視網を潜り抜けながら、仏語という共有のファクターを通し、仏・ベルギー・アルジェリア・エジプト等を往来して、異なるネットワークとの関係を深めていったとされる。

 

この間、フランス国内はテロとは無縁で一見平穏な時期ではあったが、ジャーナリストや研究者らの報告を丹念につなぎ合わせると、水面下では脈々と現在のジハーディストを輩出するネットワークが多く形成、構築されていたことが窺える。これらの層が、2011年以降のシリア内戦を契機に、アサド政権討伐等を理由に次々と渡来し、またテロ組織がインターネット上で繰り出すプロパガンダの影響により、新しいジハード世代が誕生する。複数の地域に潜む仏語圏構成員ネットワークの存在も明るみに出され、仏下院の報告書は「すでに北アフリカを含む仏語圏全体が標的と考えるべき」との見解を示している。

 

これまで外国人戦闘員にシリア・イラクへの渡航を呼びかけていたISLLは、空爆が激化し劣勢になった途端、渡航をやめ自国内でジハードを行うようにメッセージを発している。多くの専門家が言うように、ジハードに失望した層も多い一方で、悔悛したふりをして仏でのテロを再度企図している層も少なくないと私は考えている。シリアには、戦闘員と一緒に渡航した女性・子どもや現地で生まれた乳幼児が数百人いるが、一部はすでに帰還している。ジハードの思想の下で育てられ、低年齢で戦闘に従事した層の今後が懸念される。

 

また現在増えているのは、渡航歴がなく、しかし精神的に不安定な未成年の過激化である。特に2016年以降は、若い女性らによるテロ未遂事件が続き、中には、「ISLLが女性のコマンド部隊を組織した」と報じるメディアもあったが、ISLLのプロパガンダ誌には、「女性の役割はあくまでも子供を産み、ジハードの思想の中で育てていく」ことにあり、夫の自爆死を喜んで見送ることが推奨されている。しかし、戦闘員の妻たちを追いかけたジャーナリストは、妻たちは間接的に夫をサポートしており、特にユダヤ店舗を襲撃したクリバリの妻ハヤットは、殉職者の妻としてプロパガンダ誌でもインタビューが掲載され、女性たちが「家庭不和の中で育ち、犯罪歴があったり、特に性的虐待を受けた者が多い」点を指摘し、若者は自らの罪をすすぐ免罪符としてジハードを捉えていると述べている。

 

フランス当局は、1995年の地下鉄テロ以降、大幅な職員の増員や、新機材の投入により監視体制を強化しているが、2015年に運用が始まった過激派データベースの登録者数は、当初の約1万人から、現在は倍近くまで急増している。過激化の兆候を捉える場が、従来のモスクから監視の難しいサイバー空間へと移行している中、インターネットで短い間に過激化してテロを決行しようとするアマチュアの動向までは到底把握しきれていない。

 

パリ北部郊外のセーヌ・サン・ドニ県(Seine-san-denis)は、2015年の同時多発テロと実行犯のアジト襲撃の舞台ともなり、テロや犯罪と結びつけられることの多い郊外の一つである。1970年代までは、工場地帯として多くの移民が移住し、多数派の共産党員や労働組合がこれら労働者の統合を助けていた。しかし、1981年の社会党政権の誕生で県内における共産党優位が崩れ、また不況による工場閉鎖もあり、連帯は縮小しはじめた。学歴や職のない若者は麻薬取引に従事しはじめ、欧州をつなぐ長距離バスターミナルがあることで、1990年代後半以降、セルビアボスニア等から武器が流入し、県内の仮倉庫が武器の保管庫ともなっていく。

 

政府は、これらの地域で優先的に住宅供給や雇用創出等に努めてきたものの、住民当局への不信感は収まらず、2005年にはモスクでの小競り合いがフランス全土を巻き込む騒擾へと発展している。そのような中で、潤沢なオイルマネーを元手にした湾岸諸国からの慈善団体も少しずつ活動を拡大していった。特に、失業したり、犯罪を犯して家族やコミュニティからはじき出された移民二、三世の若者達は、神の前での平等を説くイスラムの教えに向かうようになったと言われる。2000年頃から増えたサラフィー主義者たちも、このように脆弱な層を狙い、収監中から訪問を繰り返して取り込んでいることも指摘されている。

 

フランスではサラフィー主義とジハード主義が同一視される傾向があるが、サラフィー主義者の中で過激化・暴力化するのはごく一部であることも強調したい。私が混乱するパリの空港へ向かう時に、危険を顧みず空港まで乗せてくれたアルジェリア人のタクシー運転手は、ある日突然、アラフィー主義者の出で立ちで現れた。儲かっていた観光者向けの運送業が、競合するタクシー業界からの圧力で廃業に追い込まれ、その時期からサラフィー主義に傾倒し始めたが、暴力的なジハード主義者とは全く別物であるという。差別の解消、社会への公平な統合を求めるこれらの若者にどう寄り添えるか、今後の課題の一つであろう。

 

その点、かつてのパリ19区網の指導者ファリードの脱過激派の経緯は興味深い。根っからのムスリム家庭に育ったファリードは、厳格な父が、祖母が亡くなって以降アルコール依存症になった姿を見て指針を失った。しかし、地元のイスラム系慈善団体に関わるようになり、原理主義者の衣類を着用することで「識者」として他者からの尊敬を得る感覚を知った。そこから原理主義の教えに傾倒し、周囲に説教したり、アラビア語を教えていった。クアシ兄弟とも、パリ19区で教えを説いていた時に出会い「兄弟ともにあまり知的ではなく、特に弟は一刻も早くイラクでジハードをしたいと焦っていた」と、彼らの印象を語っている。

 

さて、クアシらパリ19区網の構成員がイラクへの渡航を企図して失敗し、ファリードも収監されることとなるが、ある日、他の囚人により「ジハードをすることで自分は何を感じるのか」を問われ、それまで自爆テロをすることで自分は天国に行き救済されるという考えしかなく、自爆テロで巻き添えになる他者に考えを向けたことがなかったことに気づいたという。暴力的なユートピア思想から距離を置きはじめたが、とはいえ過激思想から離れるまで何度も揺り戻しはあった。収監中は「絶対に昔のジハード仲間とは会わない」と固く決心していても、出所後に真っ先にコンタクトを取り、会ったのはかつての仲間たちであった。2012年、フランスでのテロを決行したメディ・ピレネー連続銃撃事件が、ジハードから決別する契機となった。

 

彼は出所後に看護師の勉強を始めたが、社会復帰目前という時に、シャルリー・エブド襲撃が発生したことで看護職への道が閉ざされた。元過激派の社会復帰は非常に難しいものの、彼自身、出所後に教育の機会が与えられたことで、自分はフランス国民であり、社会に受け入れられたという感覚を覚えたとして、悔悛した者に社会が再度機会を与えられるかどうかが重要だと述べている。

 

現在は、若者の脱過激化の専門家とされるブザール女史に協力しているが、クアシ兄弟をテロに駆り立てた人物の登場は大きな物議を醸した。今でも、彼が過激思想から抜けたのかを疑問視する声も少なくないが、ブザール女史との共署では、脱過激化のプロセスや、他者にはわかりにくいサラフィー主義とジハード主義の違いを解説し、かつての自分のように指針を失い、過激化した若者たちの助けになりたいという熱意が感じられる。

 

欧州に向かう移民や難民が急増し、またその中の一部によるテロや犯罪が後を絶たない現状において、欧州が規制を強化するのはやむを得ないことでもある。しかし、過度の恐怖心からくる過激な規制策は、中長期的には、我が身にも跳ね返るのではないだろうか。社会を分断し、国を弱めることが、テロ組織の狙いでもあるという。フランスの希望の星とも称され、移民には寛容であるマクロン大統領が、心機一転過激な舵取りをしないことを願うばかりである。

 

f:id:Nextepisode:20180214182542j:plain