Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

現実を直視することからはじまる共存社会

 

少子高齢化労働人口が右下がりを続ける中で「移民」という言葉を耳にする機会が増えた。そして残念なことだが、少なくともそれは欧米諸国においてネガティブな文脈で語られることが多い。フランスで起きた同時多発テロブリュッセル連続テロ事件、そこで生まれたトランプ大統領の誕生。本稿では「移民」をテーマに日本における彼らの受け入れを考察したい。

 

「移民」という言葉は非常に曖昧である。というのも、移民に定義はあるものの、それは一つではなく、「移民」というテーマで議論がなされる時も、しばし識者の中でもその捉え方が異なる。国連が定める定義では、移住国を12ヶ月以上離れ、移動先の新たな国が通常の居住国となった者を移民と定義している。ここでの指標は、国籍を超えた移動と移動先での居住期間であり、国籍は問われていない。そのため、移動を経験していない二世以降は、このカテゴリーに含まれないが、居住国の国籍を取得した一世は含まれる。また、たとえばフランスでは外国で生まれた出生時にフランス国籍を持っていないものを、アメリカでは永住権を持つ外国人を「移民」と定義しており、前者の「移民」には国連定義と同様、外国人と国民の両者が存在するが、後者の「移民」は外国人の一部である。他方で、ドイツでは移民を定義していないが、外国人労働者との対比で「移民」が捉えられていると推察される。

 

では日本はどのような「移民」の定義を持っているかというと、ドイツ同様、明確な定義を持っていない。だが、アメリカにならって永住を前提に入国を認める外国人を「移民」と捉えており、その意味での「移民」を日本は受け入れていない。本稿では日本国籍取得者を含め、定住している移住一世及びその子孫を広義の「移民」と捉えることにしたい。注:本稿では文脈に応じて「移民」を「外国人」という言葉に置き換えて使用している。

 

日本は移民を政策的にどのように受け入れているのだろうか。戦後、西ドイツやフランスなどは、国外から労働力の調達で不足する国内労働力を補った。一方、日本は、男性正規労働者の長期労働、農村地域からの余剰労働力の吸収、主婦などの非正規雇用労働者の活用によって、国内労働力のみで拡大する労働力需要を満たした。日本は度々、他の先進国から「人口に占める外国人の割合が低い」と外国人受け入れの門戸を広げるように指摘されるが、外国人割合が低いのはこのためである。ただし、高度経済成長期を支えた国内労働力の中には、サンフランシスコ講和条約発効とともに日本国籍を剥奪された旧植民地にルーツを持つ移民が含まれていたことに留意が必要だ。

 

その後、プラザ合意を契機とした周辺アジア諸国との経済格差の拡大、従来の外国人労働者受け入れ国である中東産油国の不況といったプッシュ要因もあり、労働市場の需要に応えるかのように、工場や建設現場、飲食店などで海外からの労働力を多数みかけるようになった。従来は、労働力を送り出す側であった日本も、経済発展とともに豊かになり、少しずつ受け入れ国になってきている。

 

1998年、専門的・技術的労働者は’’可能な限り受け入れる方針で対処する’’、一方で、単純労働者は’’十分慎重に対応する’’という基本方針が閣議決定され、入管法が改定された。この98年の入管法の改定以降、いわゆる「単純労働者」の受け入れの是非が、移動局面の移民の争点の一つとなるが、いかなる職業が「単純労働」に該当するかの明確な区分があるわけではない。入管法が規定する27の在留資格のうち、教授や技能など、就労を目的とする14の在留資格に該当する労働者が専門的・技術的労働者とみなされ、それ以外の職種に従事する者は、入管法上は「単純労働者」に分類され、労働者としての入り口から入国することは認められていない。

 

法務省の調べでは、平成29年6月時点での在留外国人数は約247万人である。専門的・技術的労働者のみではなく、大学や語学学校で学ぶ留学生、専門的・技術的労働者や留学生の家族、途上国への技能等の移転を目的とする技能実習生、日本人や永住者の配偶者など、多様な外国人が日本で暮らしている。

 

外国人雇用状況の届け出をみると、専門的・技術的労働者が全体の2割以下であるのに対し、日系人など就労に制限のない身分または地位に基づく在留資格を持つ外国人、技能実習性、アルバイトする留学生など、専門的・技術的労働者をフロントドアからの来客とすれば、彼らのようにサイドドアからの来客が多数を占め、「単純労働」に従事している外国人も少なくない。コンビニやスーパー、居酒屋など、日頃我々が目にする職場のみでなく、建設現場や産業廃棄物処理工場、ビル清掃やホテルなどのリネンサプライ、農業や水産加工工場など、さまざまな場所で「単純労働者」は働き、日本社会の基盤を支えている。

 

彼らへの処遇の面を考察してみると、国民年金国民健康保険への加入、児童扶養手当の支給、公営住宅への入居が外国人にも認められるようになったのは、国際人権規約や、難民条約の締結、発効を受けてのことである。そのため、在日コリアンやオールドタイマーは十分な社会保障もないなか、厳しい就職差別や住居差別にさらされ、戦後の日本を生き抜かなけれなならなかった。戦後半世紀以上を経て、日本人との格差は次第に縮小しつつあるとはいえ、今なお雇用機会の差別が根差しているという指摘もある。

 

労働基準第三条には「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱いをしてはならない」と明記され、労働制度的平等が保障されているのにもかかわらず、労働相談の現状では、賃金その他の雇用条件において、外国人が平等に扱われていない実態が多く報告されている。

 

彼らの子どもへの教育に関しては制度的平等ですら保障されていない。よく問題とされるのは、義務教育の対象が国民のみであることだろう。その結果、就学年齢相当にあるにもかかわらず、学校に通っていない不就学の子どもが生み出されている。基礎的な学習の機会を剥奪され、社会のルールを学ぶこともなく大人になっていくとしたら、将来の選択肢が極めて限られてしまうことは容易に想像できるであろう。もちろん希望すれば日本人と同様に学校に通うことが認められてはいるが、そこでの教育は、日本人を前提とした日本語での授業である。そのため、日本語の能力が十分でない子どもは、学習上の困難に直面する事になる。不十分な日本語ゆえに授業内容を理解することができず、成績評価が低くなり、高校進学においてもハンデが大きく進学率も低い傾向にある。

 

外国ルーツの子供にとっての壁は日本語だけではない。「同じ」であることが求められがちな日本の学校の中で、彼らが持つ「違い」が正当に評価されず、いじめの原因となったり、自らのルーツを否定したり隠したりしてしまう子どもも多い。その結果、自己肯定感を持てず、社会で生きてゆくための十分な資源を獲得できないまま、若年で労働市場に参入する子どもも少なくはない。

 

労働において、日本人と外国人の間には社会的経済格差が生じていることは前途の通りであり、日本に限らず、国籍を越えた労働力移動において、経済的に貧しい国からの移住一世が、受け入れ社会の低い階層に参入せざるをえない傾向にあることも事実である。だからこそ、彼らを社会の底辺に押しとどめてはならないという教訓を、日本は受け入れ先進国である欧米諸国の経験から学ぶべきではないだろうか。とりわけ、二世以降が、自らの可能性を実現することで、親世代の不平等を克服し、社会経済的に上昇できる環境を整えていくことは極めて重要である。けれども、平等化の措置である教育が、現状ではむしろ格差を再生産するものになってしまっているのである。

 

高校入試における外国人生徒のための特別措置、教員やNPO関係者らによる熱心な指導や支援、本人や家族の懸命な努力によって大学進学を果たし、ロールモデルとして活躍する若者が誕生している一方で、今なお多くの外国ルーツを持つ子どもは、可能性を十分に発揮する機会に恵まれず、時として、この社会に居場所を感じることのないまま生きていかざるをえないのである。

 

繰り返しにはなるが、日本には、旧植民地にルーツをもつオールドタイマーに加え、1990年代後半以降に増加するニューカマー、そして、日本国籍を取得した者や国際結婚の子どもなど外国ルーツの日本人といった移民が暮らしている。しかしながら、ホスト社会の我々の多くがこの事実に気づいていない。彼らの存在に関心を払うことなく、民族や文化の異なる人々をどのように社会に迎え入れるかを学び合う機会もほとんどない。移民を排除しようと、ヘイトスピーチやヘイト運動を行うのは一部の人かもしれないが、我々の多くはそのような排除を黙認・放置してしまっているのであろう。

 

彼らがおかれている状況についても同様である。彼らが、制度的不平等や実質的不平等ゆえに、社会経済不平等を経験し、格差が世代を超えて再生産される傾向にあることに、我々の多くは無関心なのではないだろうか。このような態度に対する反省なしに、人口減少・労働力不足への対応として、より多くの移民の受け入れを進めても、容易に排外主義に共感する者を排出してしまうのだろう。

 

「我々」と「彼ら」という境界を超えて、日本社会を共につくる対等な構成員として向き合うことが一人一人に求められている。

 

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