Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

日本の大学生に対する批判に対する批判

 

世界大学ランキングというものをご存知の方は多いだろう。特に大学生にもなると否が応にも耳が痛くなるほど聞かされる言葉である。これはイギリスの高等教育専門誌「Times Highler Education」が毎年発表している世界の大学のランキングで、別言すれば「どの大学が優れているか」というものをいくつかの基準で総合的に判断しているものである。

最新の18年度版では日本の大学では東大の46位、京大の74位、そこからかなり離れて阪大や東工大、名大、東北大の名前が挙がる。日本国内では東の名門東京大学、西の名門京都大学と暫し崇められるが、世界大学ランキングでは年々その順位を下げ、アジア圏内に絞っても、シンガポール南洋理工大学シンガポール国立大学、中国の清華大学北京大学、香港の香港大学香港科技大学と日本のトップ二校よりも“優れている”とされる大学が増えてきている。

世界全体でみれば、イギリスのオックスフォード大学ケンブリッジ大学、アメリカのカリフォルニア工科大学スタンフォード大学がその頂点に立ち、毎年序列に少しの変動はあるが、トップ10位に入る大学は殆どが、2018年度版でいえば10位中9位がイギリスとアメリカからであった(9位スイス連邦工科大学 チューリッヒ校)。

そのような結果を受け、識者の中では「日本の大学生は海外の大学生と比べて劣っている。またその程度は開きつつある」と日本の学生の教養力や知力に苦言を呈する人たちが跋扈してきた。

筆者の見解を先述すれば、必ずしも日本の大学生が海外の大学生、東大はスタンフォードの学生よりも、京大はオックスフォードの大学生よりも劣っているということはない、というものである。更に言えば、世界大学ランキングの上位に日本の大学の名が載らないのは、またその順位が下がりつつあるのは、教育の需要側である学生が原因ではなく、教育の供給側である大学教員や大学の運営、制度や国の教育に対する寄与/貢献度の差であると考えている。筆者がそう考える根拠を以下で述べたい。

GDPに占める公財政教育収支を見れば、ある国が公教育にどれほどの資金を割り当てているかがわかる。

 

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このグラフを見れば一目瞭然だが、日本は他の先進国に比べ、GDP対の公教育に割り当てられるお金があまりにも限定的である。本来ならば国が率先して学生とその家庭の負担を軽減するために財政を確保するべきなのだが、現状はその負担の担い手は需要側である学生とその家庭なのである。

勉強をする意欲はあっても学生生活を続けるためにバイト先で酷使させられ、特に貧困世帯の大学生がアルバイトを始めると、突然纏まった現金が手元に入ることになり、そこに価値を見出し、勉強よりもバイトを重んじる傾向があるように思う。

2004年から法人化された国立大学は、法人化以降、運営費交付金(国から大学に支払われる資金であり、大学の基礎的資金となっている)の減額が続いている。また16年からは運営交付金が各大学の取り組みの評価によって重点配分されるようになった。各大学は少しでも評価をあげるために文理融合や短期的に成果が得られる地域貢献に舵を切ることになった。ある大学では被災地で被災者の脚を揉むボランティア(必要だが大学生は頭を使うべきで単純作業をすると効率が下がる)、またある大学では部活ばかりするいわゆる「名ばかりの大学生」の背中を押し練習を更に強化させ、スポーツでの競争を煽ったり、またある大学では就職率をあげるために「就活サポート」の充実を図り、面接や集団討論の練習ばかりさせる大学があったりと、結果はあまりにも悲惨である。

減少が続く運営費交付金で大学は様々な物資、必需品を確保するのだが、東大でさえ充分な交付金がないがため、十分な研究ができていないという。

研究者へは交付金の他、科学研究費助成事業を代表とする競争的資金がある。これは運営費交付金とは毛色が異なり、文科省に研究テーマを申請し、同じ分野の研究者による審査を経て交付の可否が決定する。マイナス面として、この科研費は安定的に入ってくるお金ではなく、どのくらい、どの期間確保できるかの予測が立たない。従って研究者や長期間期間雇用するための人件費に使えず若手研究者が育たない。任期付の教員の割合が高くなり、研究時間も奪われてしまう。雑務をこなす人員を雇えないために、経理や総務的な作業を教授が行なっていたり、教員の勤務時間の中で、教員が研究に確保できる時間が年々減ってきている。研究に充分な時間を確保できない教員が未来を見据えた講義ができ、学生の要求に対応できるのだろうか。些か懐疑的になってしまう。

このような現実から鑑みると、やはり資金が潤沢な世界のトップの大学や国が積極的に教育を支援し学生を大事にする国にある大学に比べ、公財政教育収支の割合が低く、国に財政がないジリ貧で閉じきった島国である日本の大学が世界の大学と比肩できないことは明らかであろう。だがこれは先述の通り「日本の大学生が海外の大学生よりも劣っている」ということではなく、供給側の「差」で決まっているように思うのだ。

劣った供給側が取るべき姿勢に関してはまた別の記事に譲りたいと思う。