Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

使える学問とは?

 

先日、大阪大学の文学部長が今年3月に開かれた阪大の卒業式の式辞で話した内容が注目を集めた。リンク)https://togetter.com/li/1131380

 

内容は「今の時代に文学部は必要なのか?」という社会の疑問に対する学部長の見解である。

 

結論から言えば、私は彼の意見には全面的に同意する。一方で彼の意見に対して辛辣的に批判する人達が多いことを考えると、時代的にもかなりセンシティブなトピックなのであろう。

 

そこでこの記事では「では役に立つ学問てなんぞや」という点を敷衍して考えていきたいと思う。

 

最近は文学部のみではなく、神学部や哲学部など、実用的ではない学問は廃止して実用的なことのみを大学で教えるべきだという意見が増えてきた。

 

実用的という意味では、理学部で教えている学問の大部分は実用的ではない。数学科を卒業して、コホモロジー理論やガロア理論、表現論、スキーム論、多様体論、測度論といったものを使っている先輩達は極一部である。

 

これは物理学科でも同じで、量子力学相対性理論のような基本的な物理であっても卒業してから使っている人は殆どいないだろう。

 

では「将来使わないから」を理由にいわゆる役に立つ内容のみを学生に教えれば彼らは世の中で活躍できるかというと、私はそうは思わない。

 

コホモロジー理論や量子力学は確かに実用的ではないが、これを理解するのは、講義に出て座っているだけでは不可能である。自分で頭を絞って考えないと理解できない。

 

たとえば、ハーン・バナッハの拡張定理は

「バナッハ空間の閉部分空間上定義された有界線形汎関数は、ノルムを変えることなく全空間に拡張できる。」

と簡単に述べられるが、これを理解しようとすると一朝一夕には行かない。こういったことを頭を絞って考えることに大学教育の意味があるのである。

 

そうやって頭を使う機会が減ってしまうと自分で考えることが出来ない学生を量産することになってしまう。抽象的な概念が出てくると、途端に混乱してしまい、「何かよい参考書や、問題集はありますか?」という質問をよく受けるのはそういった学生が多いなと実感としてはある。

 

大学教育の価値は、その教育内容ではなく、自分の頭で考える機会を得ることにあるのだと思う。

 

ゆえに文学部や哲学部など確かに学問的ではないかもしれないが、頭を使わず簡単に結果が出るような勉強をしたところで、それは簡単に使い物にならなくなってしまうだろう。

 

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