Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

こうして多様性は朽ちていく

 

この春から高校生になった親戚の女の子がいる。両親は彼女が小学生になる前に離婚をし、女で一つで育ててくれた母親を少しでも楽にさせたいという一心で猛勉強を重ね、ついには県内でも目立ついわゆる「エリート校」に合格した。小さい頃から大人染みていて、中学生の時にはよく私と政治や宗教の話をした。

 

そんな彼女と親族の5回忌に久しぶりに顔を合わせた。今月のことだ。私も知っている先生が何人か現役でいたので、話を聞けることを楽しみにしていた。だが彼女はかなり病んでいるようだった。様子が気になったので話を聞いてみると、どうやら学校の授業のことで悩んでいるらしい。これは進学校にはよくあることだが、独自のやり方で授業を行う先生が多い。今は亡き灘高の橋本先生が国語の授業で教科書に凧揚げが出てきた際、授業を中断し運動場に出て生徒と凧揚げをして遊び、学生に体感的に学ばせた話は有名である。

 

その日の授業は原発稼働についての是非をクラスで討論するというものであった。クラスで多かった意見が、原発は発電量あたりの単価が安い、温室効果ガスを排出しない、などといった原発稼働を支持する意見だった。そこで彼女はチェルノブイリや福島の原発事故の教訓から、原発はすぐにでも止めるべきだと主張した。だが賛成派の学生は、それは一部の人が被害を被るのであり、それによって多くの人に恩恵があるのであれば仕方のないことではないかといった自己責任論であった。

 

私は、復興庁の記者会見で元復興相の今村氏が東日本大震災について「東日本大震災は東北でよかった」と発言していたことを思い出した。「被災した人は自己責任でなんとかすべきだ」という意見にはかなり驚いたが、その意見に共感する人たちがいることには驚きこえて体の芯からの震えを感じた。

 

彼女のクラスの生徒の中には「被災者には国から隔離して暮らすよう呼びかければ、被災しなかった人たちには影響はない」とまで言い放った学生もいたらしい。その授業があった次の日から、彼女は授業で自ら進んで意見を言うのを止めたという。

 

私が言いたいのは、彼女が被災者のことを親身に考え、人思いで、感受性が豊かで素晴らしい学生だということではない。少数派の人間が多数派の”数の圧力”により権利や尊厳を乱暴に圧迫され、その圧力が教室を超えて社会にも出て行く”危険性”があるということだ。そして全ての学生と同等に彼女にも与えられていた学び、発言する権利を、形式上は自ら放棄して自分の心の中に逃げ込まされるということだ。

 

私のようにある程度年齢を重ねてしまうと思考はどんどん狭くなっていってしまう。だが高校生という無限の可能性があり、対話を通じて思考力も青天井に伸びる成長段階で考えること自体を止めてしまっては、年齢的にも難しい時期だ、路頭に迷ってしまう。

 

だが不幸中の幸いといったところだろうか、彼女には話を親身に聞いてくれる親や友達がいた。だが社会の中で孤独を深めている人たちは一体どこへ逃げ込むというのか?

 

全ての人の意見が通るなんて微塵も思ってない。しかし、数が暴力になりかねないという危険な一面を持っていることをもう一度皆考えるべきではないだろうか。

 

彼女には一生に一度の高校生活を謳歌して欲しいと心から願っている。

 

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