Nextepisode’s blog

院生(M1) 専門-開発経済/国際関係

不当な教育への支配に我々は屈してはならない

国民意識輿論の形成は教育に如くはなく、国家が意図的に特定思想注入や矯正を行う例は枚挙に遑がない。戦前の日本の天皇絶対・軍国主義教育は言わずもがな、現代中国の愛国教育や北朝鮮主体思想等人権の侵害や無視を伴うが、その効果は顕著である。しかしそれらは、民主的近代教育から見れば教育への不当な支配・介入として排除されるべきものだ。従って、改正前教育基本法においても、現教育基本法においても強く否定されている。

 

しかし、ここに来てそれが俄かに注目を浴びている。前川前文科事務次官の名古屋の私立中学校の授業ばかりではない。北海道のニセコ町立高校での「原発出前授業」に経済産業省が圧力をかけことが大きく報道された。だが、実は北海道では保守系議員が道議会や道教委を通じて、高校での憲法講和や時事問題などを扱う授業や教員に圧力をかけ、現場を萎縮させる事案が数多く見られるのである。

 

そこで確認すべきは、なぜそれが行われるかということである。圧力をかけた側は例外なく教育の公正中立を求めたとか、その内容が一方に偏っていた、或いは学習指導要領を逸脱していたということなどを理由とする。だが、それは要するに現政権やその政策、又は教育方針に批判をゆるさないというとだ。いかなる思想や教育方法にも字義通り「公正中立」などありえない。必ずなんらかの思想のフィルターが介在する。従って、真に求められるべきは子供たちの人権の尊重、自立して生きていく力、物事の本質を見極める知力と、批判的視点の獲得である。教師の努力はそこに傾注されなければならない。

 

さて有名な事案に2003年の都立七生養護学校事件がある。結局、13年の最高裁判決で関係した都議の「不当な支配」を都教委が阻止しなかったということで決着を見た。しかし、注意すべきは一部マスコミがこの事件を扇情的に取り上げ輿論を混乱させたことだ。報道がかつて権力に阿って国民を悲劇に導いた教訓を再び思い返すべきである。

 

事件は結局、子供たちの心と体を守るという教師たちの願いを潰し、性教育を後退させ、更には国旗国家を教師と子供に強制する都教委の呼び水となった。悪影響は現代もなお日本全国に及んでいる。今年三月、東京都足立区中学の三年生を対象に行った性教育授業に、ある都議が問題だと指摘し、授業内容を調査した都教委が区教委に指導を行った。この都議とは、七生事件にも絡んでいた人物で、その執念は唯々恐れ入る。

 

このような事案をみてくると隔靴掻痒の感であり、日本は名ばかりの近代国家で、教育への不当な支配が日常的に行われている非民主、非近代国家だということがよくわかる。教育の憲法たるべき教育法が愛国心を強要していることをはじめ、学習指導要領や教科書検定制度等々、教育への不当な支配が日本の教育制度の根底に横たわる。迂遠だが、不当な教育への支配に対する批判はまずここから始めなければならない。

 

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Dialogue

 

人を戦争へと駆り立てる要因は一つではない。しかし平和への道はただ一つ、話し合うことだ。

 

日本国憲法アメリカの押し付けと言われるが、私は憲法9条、平和主義への起源は、ドイツの哲学者カントが書いた「永遠平和のために」の中にあると考えている。300年前に、まだヨーロッパが戦争に明け暮れていた時代に書かれたこの本は、戦争の原因を一つ一つ取り除くことにより平和が得られると、説いたものである。その中でカントは平和のためには軍隊、常備軍を廃止せねばならないと説いている。ところが、もう少し読み進むと「外敵からの攻撃に備えて、自発的に武器をとって定期的に訓練を行うことは、常備軍と全く異なる」とも書かれている。

 

平和がある世界を願うカントも、結局は概念論者だと思った。しかし2015年安保法制の議論の中で、このカントの言葉が突然思い起こされた。つまり、常備軍の廃止とは集団的自衛権の廃止であり、外敵に備えて武器を取る、ということは個別的自衛権を意味すると考えられる。

 

自衛隊に反対の人は自衛隊をなくせと主張し、賛成 の人は憲法で個別的自衛権を認めろと主張する。そして、わずかな考えの違いを狙い撃ちするように、改憲を強行しようとするのが安倍政権である。堂々と議論の末に改憲をするならまだ納得できるが、知らないうちに憲法が書き換えられているかのような安倍政権を許すことはできない。

 

安倍政権は北朝鮮の核実験とミサイル発射をテコに、強気な言葉により指示が得られるポピュリズムの政治を利用して、国民を分断しようとする。武力ではなく、話し合いと法律により平和を築くことができるのだ。民主主義のもと私たちは主権者という権力者である。私たち一人一人が権力者である限り、巨大権力は生まれず、戦争を起こすことはできない。立憲主義三権分立これらはいずれも巨大権力を許さない、平和を築くための法律と考えることができる。そしてその先に日本の平和憲法がある。

 

逆に法律によって巨大権力を作り、戦争を起こすこともできる。安倍一強のもと特定秘密保護法、安倍法制、共謀罪法案があっという間に成立してしまった。このままでは警察の捜査に協力して下さいが、協力しろとなり、NHKの受信料を払ってくださいが、払えとなり、国に税金を納めて下さいが、納めろとなる。それはもう民主主義国家ではない。

 

話し合うことが我々にできるすべてのことである。話し合うとは相手を言い負かすことでもなければ、考えを一つにすることでもない。憲法に対する思いは人さまざまだが、小異を尊重しつつ互いの違いを乗り越え、必ず安倍政権反対を大同につくことができると信じたい。

 

今必要なのはディベートではなくダイアローグである

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部活動は社会の縮図

 

日本大学のラクビー部の顧問が矢面に立たされている。事の発端は今月6日の関西学院大学との定期戦で起こった。日本代表候補にも選ばれ、将来が有望される日大の選手が監督から「最初のプレーで相手に怪我をさせろ」と指示を受け、その指示に従った選手はその試合中に悪質なファールを繰り返し、一人の選手に怪我を負わせ退場になった。「相手を潰してこい」との信じられない指示を出した日大の監督は日大常務理事を務めるほどの人間でもあった。監督からの指示を受け反則プレーを強いられた生徒は前代未聞、多くの記者の前で素顔を晒し謝罪の意を述べた。

この事件を、単に顧問の問題と結論づけるのは容易だ。現に多くの教員は指導者としても熱心で、そればかりか無償か少ない報酬で部活を引き受けている。だが、私は部活という密閉された空間における異常性について、少し思うことがある。新聞を賑わせる部活動における過度な指導を行うのは、大抵は運動部である。それは上意下達を徹底し、有無を言わない体育的な雰囲気に一因があるが、実は吹奏楽部や合唱部でもこの文化は根強い。

私の姉は関西でも有名な高校の吹奏楽部に所属していたが、毎日のように朝は早く夜家に着くのは22時をまわっていた。それでも楽器を吹くのが好きだった姉は骨の折れるメニューをこなしつつ、一方で理性を保つように頑張っていた。ある日、姉が家に帰ってきて親に顧問の先生が部員に発した言葉を赤裸々に暴露した。「ここは治外法権だ。君たちは金賞を取るまで人権もない」と言われたことを。私は驚きを隠せず部活を辞めるように姉に伝えたが、集団の中から一人抜ける覚悟を姉はおろか、どの部員も持ってはいなかった。結局誰一人として弱音を吐くことが出来ない環境の中、姉は部活を引退するまでずっと監督に服従することとなった。指導と称して発声中に口に指を入れられたり、腹式呼吸の確認と
称して下腹部すれすれを撫でられたりしたそうだ。

よく人は「結果が伴えば嫌な記憶は忘れられる」というが、それは間違いだと私は感じている。全国を舞台に楽器を弾き、うち大きな大会で金賞も獲得したが、おかげで何の感慨も消え失せてしまったそうだ。むしろ、結果を出せば全てがチャラになる風潮に当時の姉は疲弊しきっていた。部活動とは、指導者である大人一人に対して判断能力の弱い学生が数十人いる土壇場である。必然的に顧問は独裁者になりやすい。加えて、勝ち続けることで学校、保護者、地域からの期待と尊敬は高まり、実績さえ出せば誰も逆らえなくなる。姉の顧問も裏で学生たちに独裁者と呼ばれていた。

日本大学のラクビー部の今回の一件で、部活では指導者と学生との人間関係が崩れ、意に反して指導者に服従している学生たちがいることが明るみに出た。学校は社会の縮図だとよく言われる。閉塞感によって思考停止状態に追い込まれていく状況を、今こそ真剣に見直さなければならないと思う。

 

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若者の政治参加の意義

 

2015年に公職選挙法が改正され、満18歳以上に選挙権が付与され、これにより一部の高校生が新たに有権者となった。これは国民の制度的政治参加を拡大する政治政策改革として肯定的に評価できるものであったと思う。しかし、民衆の政治参加拡大の世界史的展開過程に照らして言えば、選挙権獲得による制度的政治参加の拡大に先行して存在するはずの一連の非制度的政治参加、とりわけ選挙権獲得のための闘いを経ることなく、いわば若者の頭越しに選挙権が付与されたという事実は見逃してはならない。当事者からの明確な政治参加要求どころか、散発的な非制度的政治参加さえほとんど見られないなかで、フルセットの政治参加が承認されたのである。このため、主権者教育や政治的教養教育の充実など、政府の施策によって若者の政治参加意識を育ているという奇妙な逆転が起きている。教師はこれまで授業で政治的な事柄を取り上げることを制限されてきたが、今後は上からの「政治的教養の教育」を担わされることになった。そして、政府は教育の中立性確保を名目に教育の自由と自律性をこれまで以上に制限しようとしている。このままでは、学校という場が、政治に利用されかねない。

 

16年の参議院議員選挙前には「自分の一票を投ずべき候補者や政党をどのようにして決めてよいかわからない」という趣旨の若者の声が多く聞かれた。「政治のことがわからない自分が選挙に参加していいのか」という誠実ささえ感じるこの発言には、選挙権行使への戸惑いが現れている。これに応えるように、多くの高校で、選挙制度や投票方法に関する特別授業や、選挙公報や新聞を利用した模擬投票などが行われた。政治の仕組みや選挙制度をわかりやすく解説した記事を搭載した雑誌や新聞も多く見られた。しかし、参議院議院選挙終了を潮目に、主権者教育、政治的教養教育は急速に後退した感がある。この原因を考えると、若者の政治参加と政治的教養教育をめぐるもう一つの問題が見えてくる。

 

その原因は第一に、主権者教育、政治的教養教育に自発的、主体的に取り組む教師は全体から見ればごく少数に留まり、法改正後最初の国政選挙に備えるという外在的要因がない限り、学校内部からこれらを率先して行おうという動きは生まれにくいことである。この背景には、教師が授業などで政治的事柄を扱うだけで「偏頗教育」のレッテルを貼られかねず、学校教育において政治はアンタッチャブルな領域とされてきたという事情がある。改憲を目指す安倍政権のもとで、政府与党関係によるマスコミへの露骨な介入、憲法擁護や平和主義に関する集会への公共施設使用拒否や後援拒否など、安倍政権の政治的見解に沿わないと判断される行為への露骨な抑圧が強まっている。

 

学校教育について言えば、安倍政権は教科書の旧日本軍による集団自決強制や従軍慰安婦などを記述するのを制限したり、教科書への政府見解記載を強要できるように教科書検定基準を改定したりして、教科書の記述を政権の意向に沿うように作り替えさせている。道徳に関して言えば、全教科の教育目標に道徳が位置付けられただけではなく、文部科学省でさえ積極的でなかった教科化が政治主導で強行された。また、生徒やその保護者と称する人々が匿名で特定の授業を名指しで偏見教育だと告発し、自由民主党がウェブサイトでそういった密告を推奨する暴挙に出た。本来なら学校、教員を不当な支配から守るべき立場にある教育委員会がむしろ率先して攻撃する側に回ってしまう事例も少なくない。

 

このように自由にものの言えない雰囲気が熟成され、教育に対する不当な支配介入を目的とした攻撃が強まる中にあって、授業で政治的事柄を扱うことに教師がリスクを感じるのは当然のことである。また、こういった事態を感じ取って、政治的なものに関与することを避ける生徒もいるだろう。

第二に、主体的な政治参加意識をもち、積極的に政治的活動に参加する高校生や若者も少数にとどまっており、高校生自身の政治的教養教育に関する学習要求もそれほど強くはない。政治についてもっと学びたいという学習要求が高校生自身から表明されれば、生徒の要求に応えようとする教員が現れてくるだろうし、教育への支配介入を押し返す取り組みも活発化するかもしれないが、現状では教員のモチベーションを高める教育内在的要因は乏しい。受験勉強のように強い外在的圧力がかかっている場合は別として、生徒の主体的な学習は生徒自身の内在的学習要求に支えられなければ成立しない。制度的か非制度的かにかかわらず政治参加の機会を持っている高校生たちは、自ら政治的事柄に関する学習の機会を求め、主権者教育、政治的教養教育への要求を強めるはずである。政治的教養に関する学習意欲の低さは、生徒の政治的活動をほぼ全面的に禁止し、学校教育全体を通じて系統的に生徒が政治な事柄に関心を持てなくしてきたことと無関係ではない。日本の若者の政治参加や政治意識の低さの原因を日本の風土や日本人の特性に求める議論もあるが、国民とりわけ若者が政治に参加したり関心を持ったりしにくい制度や仕組みが張り巡らされていることは見落としてはならない。

 

第三に、安倍政権は選挙権年齢の引き下げを含む公職選挙法改正案を国会に提出したものの、若者の政治参加を自らの政治的目的達成の手段と考えており、国民の主体的な政治参加を真剣に考えてはいない。それどころか、安倍政権中枢は、若者が親生だより保守化していると判断し、有権者に占める若者の割合を増やすことで、日本国憲法改正における国民投票を有利に運ぼうと考えていた。こういった政治的意図が働いている中にあっては、主権者教育や政治的教養教育、そして政治に関与すること自体を避けさせてしまうのも仕方がないと言えるだろう。

 

ここまで見てきたように、選挙権年齢の引き下げを内容とする公職選挙法改正の裏では、若者の非制度的政治参加が活発化しないよう政治的活動を抑制しつつ、選挙や国民投票などの政治参加制度の枠内で政権の意向に沿って行動する国民を育成しようとする論者は決して少なくはないだろう。しかし、それだけでは現実は何も変わらない。政府を批判するだけではなく、自分自身をこの現実の一部を構成するものとして客体化、相対化し、事実を捉え直すことも必要であろう。生徒の学習の自由は国家による一面的知識や価値観の教え込みだけではなく、教師によるそれにも対抗しうる法益であり、教師の教育の自由は学習権保障の要請に従う限りにおいて擁護されるべきだと考える。

 

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学校について思うこと

 

ここ最近なってアクティブラーニングという言葉を聞く機会が増えた。アクティブラーニング(Active learning)とは文字どおり、アクティブに学ぶ、言い換えれば学習者である生徒が受動的となってしまう授業を行うのではなく、能動的に学ぶことができるような授業を行う学習方法である。先日、とある大学教員と話をしていて、その教員はアクティブラーニングの話題に移った際「やっと生きた学びが得られるようになる」と口にした。

 

東京オリンピックパラリンピックを睨んだ2030年から、新しい学習指導要領が実施されることになった。答申は希望に溢れ、特に学校と社会の密接なつながりを強調した。「世の中と結びついた授業等を展開していけるように」という文言が印象的である。

 

学校は世の中から乖離した空間だとの批判が、頻繁になされる。その指摘するところは正しいとしても、それこそが学校のあるべき姿ではないかと思う。世俗にまみれた価値観で行うものが、教育だとは到底思えない。公教育の真価は、どんな家庭に生まれた子どもも等しく教育の機会を与えられるところにある。いずれ社会に羽ばたく子どもたちに、生きる上で持つべき規範意識や倫理観を教えることが、ひいては日本の将来を支えることになるのではないか。

 

今この国、いや世界を覆う、金銭を稼ぐことだけが偉くて、学校での学びは「何の役にも立たない」とする冷笑的な雰囲気はどこから来るのか。誰もが知る一流企業の幹部は官僚と手を組み、他国に原発を輸出し、あるいは武器を売ることで、自分たちの会社だけは景気を上向きにしようと必死になっている。戦争で二度も原爆を浴び、甚大な原発事故を起こした国で生きてきたエリートとは思えない判断である。

 

日本の朝鮮学校で学んでいた私の母は、十分な教育を得たとは言えないのかもしれないが、そんな母が「教育というのは、その子が自分一人で良いことと悪いことを判断できる力を身につけさせることだよ」と私に言い聞かせていたことを思い出した。あの時は、そんな当たり前のことを身につけるために何年も学校で勉強させられるのか、と嫌気がさしていた。けれども、この歳になって母が言っていた言葉の意味が理解できる。

 

一昨年に出た学習指導要領の答申には、人工知能など未来的な視座には見えるが、今まさに問題とされている子どもの貧困や教員の過剰労働については、問題の大きさに比べて扱いが小さかった。教育は未来への投資である。教員の就業時間の全ては、いつか子どもが大人になったとき、その将来を握るハンドルを間違えないようにするための労力に他ならない。新しい学習指導要領が、学校の社会への貢献を期待するのではなく、子どもの将来への惜しみない支援を約束するのであればいいと心から願う。

 

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自己責任論の極致

 

世の中にはしてはならないと言われることがある。薬物使用や売春、自殺などである。最近街を歩いていると、薬物使用の恐ろしさを訴えるポスターを頻繁に見かけるようになった。内閣府や警視庁が出すJKビジネスへの警告チラシには「絶対やっちゃダメ」の言葉が添えられている。また自殺願望者に対しては、古くから宗教の世界において「自殺をすれば天国に行けない」とタブー視されてきた歴史がある。

 

望ましくない行為をしそうな人々に何らかのアクションをすることで、そこから遠ざけたいという善意から発した言葉であることは疑わない。しかし「ダメ絶対」の烙印を押すことに、一体どれほどの意味があるというのだろうか。

 

先日、世界的に有名なDJプロデューサーであるAvicii氏が滞在先のオマーンで自殺をしたというニュースがあった。若くして成功し富も名声も得た彼がなぜ自殺を選んだのかと感じた人もいたと思う。他方、日本の芸能界でも薬物使用で世間を賑わす人達が後を絶たない。

 

「ダメ絶対」のポスターを見ていると、そうした彼/彼女らの顔が頭に浮かぶ。ダメなのは、みんなわかっている。誰も薬物や売春、自殺を善行となんて思っていないだろう。そこに至るまでに抱えきれない孤独感や喪失感を無視して、「それはやってはいけないことだよ」という正論だけを振りかざす。

 

弱い人が抱えている問題には向き合わないのに、正しくあれと強要してくる社会になってしまった。そうなってくると外部からの影響で「ダメ」の行為に移ってしまう彼らと、そうはならない人たちとの世界はどんどん隔っていく。JKビジネスの啓蒙ポスターについては「買う側の視点」が欠如しているように感じることがある。「売る側の人間」も「買う側」の人間も、そこに至るまでにはそれぞれにストーリーがある。その個々の境遇を無視し、なりふり構わず批難する人たちは、本当に大事な感性を失っていると思う。

 

そうやって外にいる人たちが「ダメ絶対」の烙印を押し続ける。まさに自己責任論の極致ではないか。自分がいざ当事者になってみないと何も気にせず生きていける鈍化した感性に警鐘を鳴らしたい。

 

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人の痛みを感じれる社会に

 

私が大学生の頃、ある教授から一人の男子学生を紹介された。その教授は東日本大震災が起こって以降、頻繁に東北へ足を運び、積極的にボランティア活動をしていた。その活動中に当時福島で大学生活を送っていた彼と知り合い、教授の勧めでうちの大学に編入してきたそうだ。

 

ある日、いつものように図書館に向かった私は、偶然に彼と鉢合わせた。腕に抱かれた「行政訴訟」の文字に目を落とすと、彼はゆっくりとうつむいた。「難しい本を読んでいますね」と言う私の問いかけに彼が答えてくれたおかげで、その日は勉強を中断し近くのカフェで数時間話した。

 

それからしばらくの月日が経ち、ある日大学の掲示板に掲載された原発集団訴訟に関するポスターを見た。そのポスターを見て、何のために彼が図書館に通っているのかがわかった。

 

全国に20ヶ所以上もある原発集団訴訟の中でも、千葉地裁では「ふるさとでの生活」が奪われたことを精神的苦痛の根拠にしている。そして去年、判決はこの国の責任を退け、東京電力の過失を「重大な過失はなかった」としながらも、賠償金の増額を認めた。これは、ふるさとを喪失したことが慰謝料の対象になることを認めたに等しい。

 

もちろん、当時の弁護団が言っていたように、国や東京電力の責任を矮小化する判決であり、その意味においては不当な判決であったと思う。だからその判決が出て彼に「よかったね」という言葉をかけることはできなかった。しかし、司法が「ふるさと喪失」を根拠としてその精神的苦痛があることを認めたことは小さくはないと思う。

 

我々は日々の報道に接する際に、結論部分である判決にしか興味を示さないが、その根の部分に多くの人たちの思いがある。そこに想像力を使い、ある一部に人の痛みを社会全体で感じられるようになるまでに、どれほどの過ちを正面から認める勇気を持たなければならないのだろうか。東日本大震災が国や東京電力につきつけた現実は途方もなく重い。

 

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